社に来たのではなく、あなたにお目にかかりに来たのです。」
石村はじっと青木の顔を見つめた。
「扉にお名前がはいりましたね。」
「うむ、いろいろ客が多いものだからね。まあ掛け給え。」
それだけの応対が、青木にしては実は強硬な態度に出たつもりだったが、少しも手応えがなく、自分の方が滑稽にさえ思えてきた。彼はいきなり内ポケットから辞職願を取出して、石村に差出し、それから椅子に掛けた。石村は紙片を一読して、相手の顔にぴたりと吸いつくような視線を投げた。
「よろしい。願いとあれば、叶えてあげよう。だが、一身上の都合というのは、どういうことかね。」
「まあ私の、心情に関することと申した方が正しいでしょうか。つまり、平静な心境に自分を置きたいのです。」
「すると、なにかね、この会社にいては、心境が乱されるとでもいうのかね。」
「そういうわけではありませんが、どうも私は我儘で、あなたの意向にも添いかねることがあるでしょうし、また酒飲みで、ふしだらなことを仕出かしそうです。そのようなことが重なったら、あなたはきっと私を馘首なさるでしょう。」
石村は笑った。「まあそうだろうね。」
「だから私は、いつ首になるかと、始終びくびくしていなければなりません。」
「よく分った。そう遠廻しに言わなくてもよかろうじゃないか。上海以来の知り合いだし、この会社でも六年になる。直接の理由は、先日のことだね。今西の一件、情報云々のこと、あれだね。」
青木は黙っていた。
「君がそうこだわるなら、君の気の済むようにしたがよかろう。僕にしても、一旦言い出したことを引っ込めるわけにはいかないからね。」
「私はスパイ根性が大嫌いです。スパイのまたスパイ、そんなものには虫唾が走るんです。」
「現在の君としては、そうだろうね。」
青木は眉根を寄せた。なんだか予期に反するのだった。話があまり通じすぎるのである。石村は静かに言った。
「君も変ったねえ。」
青木は石村の眼を見た。
「つまり、なんというか、インテリになったということだよ。時勢が変り、緊迫が次第に激しくなると、僕も変った。君と反対に、次第に野蛮になってゆくよ。どうも、君と僕とは反対の方向に歩いてるようなものだね。」
青木はまた眉根を寄せた。話があまり通じすぎるのだった。ふと、疑念が湧いた。
「私があのようなふしだらをしたから、退職の口実を造ってやるために、冗談を仰言ったのではありますまいね。」
「冗談というと……。」
「スパイ云々、情報云々……あのことです。」
「違う。絶対にそんなことはない。その証拠には、君に約束しよう。いつでもまた復職したかったら、やって来給え。その代り、君の方からやって来ない限り、僕の方からは手を差伸べないからね。その点ははっきりしておこう。」
「よく分りました。」
もう言うべきことはなかった。石村は辞職願を仕事机の抽出しに納めた。
青木は暫く考えてから、切り出した。
「お願いしたいことが、二つあります」
「ああ。遠慮なく言ってくれ。」
「あの、今西巻子は、共産党員でもシンパでもありません。ましてスパイではありません。このこと、了解して頂けましょうか。」
「君はそう信ずるかね。」
「ええ、信じます。」
「それでは、僕も君の言葉を信ずるとしよう。ところで、君はあの女を愛してるのかね。」
「そんなことはありません。酒の上の過ちです。私には妻があります。」
「だが、あの女はどうも、君の側の陣営の者で、僕の側の陣営の者ではなさそうだね。」
「それは、私にはむしろ逆ではないかと思われますが……。」
石村は首をひねった。その時、青木ははっきり気附いた。今西巻子に事よせて、二人ははっきり絶縁したのだった。気持ちに何の後腐れもなくさっぱりとした。
「最後のお願いですが、お約束通りの退職金を、今日頂けますまいか。」
「ばかに気が早いね。惜別の宴でも、一夕、社員たちと一緒に設けたいんだが、どうかね。」
「そのようなこと、気が進みません。」
「いやにはっきりしてるじゃないか。」
石村は仕事机の方へ行って、何か帳簿を調べ、それから小島を呼んで、丸田の方へ紙片を持たせてやった。
暫くして、丸田がやって来、青木を見ると、びっくりしたように佇んだが、石村へ封筒を差出し、青木へは会釈しただけで出て行った。
石村は青木の前へ戻って来た。
「では、これは今月分の手当。これは退職金。退職金の方は小切手になってるが、いいだろうね。調べてみてくれ。」
青木は金を調べ、前に置かれてる受領書へ捺印した。
石村は仕事机から戻ってきてから、まだ突っ立ったままだった。青木は金を納めてから立ち上った。
「長々お世話になりました。」
「いや、御苦労さまだった。」
石村が手を差出したので、青木はその手を握った。その時の石村の凝視の眼光と頑丈な硬い掌とに、青木はぞっと身が凍る思いをした。その感じが、あの喜劇のさなかを妻の登志子に覗かれた瞬間の感じと、ふしぎに相似たものがあって、青木は更にぞっとした。
青木は反抗的に言葉を探して、ばかなことを口走ってしまった。
「私は今西巻子を少しも愛してはいません。然し、あの女は、あなたと気が合いそうです。ほかのことに使ってごらんなすったら、屹度役に立つだろうと、私は思います。」
余計なことを言って、失策ったと思い、青木は唇をかんだ。石村は冷かに答えた。
「ああ、考えておこう。」
青木はくるりと向き返って、扉から出て行った。そして証券会社の扉の前で、ちょっと躊躇したが、只今の失策がまた胸に来て、中へははいらず、足早に通りすぎてしまった。
底本:「豊島与志雄著作集 第五巻(小説5[#「5」はローマ数字、1−13−25]・戯曲)」未来社
1966(昭和41)年11月15日第1刷発行
初出:「新潮」
1952(昭和27)年6月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年2月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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