れっきりなの。」
 何を言うか、と青木は思ったが、その憤りのため、却って後へは引けなくなった。
 二人は喜久家へ行って、また泥酔し、泊りこんでしまった。前の時と同様、味気ない一夜だった。翌朝、巻子は言った。
「こういう保養も、たまにはいいわね。」
 その冷淡な言葉に、青木は見事に仇を打たれた気がした。勝気で不感性めいた彼女に深入りしてると、これはとんでもないことになりそうだ、と警戒の念が起った。其後、青木は彼女を避けるようにした。
 それだけの交渉だったのである。然し、石村は執拗だった。
「僕は、君が彼女を丸めこんで、何か情報を得ようとしてるのだと思ったが、違うかね。」
 青木はただ唖然とするばかりだった。
 石村は酔眼を据えて、じっと青木を見つめた。嘗て上海にいた頃、石村はよく相手の顔を凝視した。ぴたりと吸いつくようなその眼光には、人を威圧するものがあった。今では、丸刈にしていた頭髪を長めに伸ばし、白毛もだいぶ交っており、頬の肉は少し落ちていたが、青木にとっては、あの頃の眼光を久しぶりに見出した気がした。
 青木は眼を外らして、ウイスキーをなめながら、口籠った。
「私には、何のことだか[#「何のことだか」は底本では「何のことだが」]、よく分らないんですが……。」
「なに、分らない。」
 だいぶ間が途切れた。
「いったい君は、今西を、何だと思ってるのかね。」
「それは、どういう意味ですか。」
「彼女の人物のことさ。」
「ここの社員でしょう。」
「社員は社員だが……。」
 少し間を置いて、石村は打っつけるように言い出した。
「まだ確かな証拠はないが、僕の眼に狂いがなければ、あれは日共の党員だ。少くとも党の同調者だ。そしてここで、何等かの情報を得ようとしているのだ。この頃本社では、諸会社の内情調査を主な仕事としてるものだから、それに関連した情報獲得の便宜もあるし、それから猶、警察予備隊だの、保安隊だの、僕の個人的な関係方面のことについても、知りたいニュースがあろうじゃないか。然し、彼女なんかにそう易々と尻尾は掴ませない。その代り、彼女の、いや日共の、尻尾を掴みたいものだ。君がその仕事をやってくれてるものだと、僕は思っていた。まだやっていないのなら、今からでも遅くはない、やってみないか。下らなく思われるような言葉尻だけでも充分だ。君と彼女の間柄なら、わけはないだろう。」
 青木は顔が挙げられなかった。巻子には聊か自由主義者らしいところがあったが、まさか共産党員だとは思われなかったし、ましてやそのスパイだとは思われなかった。そして今、青木に提出されてる仕事は、スパイに対する逆スパイの行為だったし、而も色情を以てするそれだった。彼はウイスキーをあおった。
「君の淮河治水工事の話なんか、なかなか立派だったよ。」
 そして突然、石村は哄笑した。青木は顔を赤らめ、そして慌てた。
「いえ、あれは、あの時だけの思い附きで、例えば、万里の長城にしても同じことです。」
「なに、万里の長城がどうしたって……。」
「延々と三千キロに近いあの大城壁です。辺境蛮族の侵入を防ぐための大工事ですが、あれだって、淮河の治水工事と……。」
 青木は言葉につまった。
「そうだ、日本にも一種の万里の長城が必要なんだ。たとえ徐々にしても、国防の背骨となるべき軍備が必要だ。ところが、その再軍備の方法について、諸説まちまちで、一向に纒っていない。第一、旧陸軍方面と旧海軍方面との、意見の喰い違いが甚しいし、そのほか各方面で勝手なことを主張しているんだ。国論の統一、万里の長城を築くことが、目下の急務さ。自由主義とか、平和主義とかは、問題にならん。そんな隙間から、敵に乗ぜらるることになるんだ。」
 青木はすっかり腐ってしまった。なんだって今、万里の長城なんか持出したのかと後悔しても、もう追っつかなかった。
「すべて万里の長城のためさ。先程言ったこと、やってくれるね。喜久家の費用は僕が引受けるから、いいかね。」
「とにかく、よく考えてみましょう。」
 それだけ答えるのが、青木には漸くのことだった。

 夜の街路を、青木は飄々乎と歩いていった。通り馴れた途筋で意識せずとも自然に足は一定の方向へ動いた。或る屋台店で、鰻の頭をかじりながら焼酎を飲んだ。それからまた歩いた。地階への狭い入口がぽかりと開いてるのを見定めて、よろよろと降りていった。幾つかの店に区切られてるその一番奥に、壁に沿って白木の卓が並んでる飲屋があった。端っこの隅の卓で、丸田が日本酒を飲んでいた。石村証券の社員である。青木はその前に行って佇んだ。
「あ、いらっしゃい。ここでよく逢いますなあ。」
 青木は黙って彼の顔を見ていた。
「どうかなすったのか。顔色がよくありませんぜ。」
 青木は薄笑いを浮べて、腰を下した。差された杯を受けながら、丸田の顔をつくづくと見た。
「あんたは会計の方の係りだから、知ってるでしょうが、石村証券の経営状態は、今のところ、どうなっていますか。」
「赤字ですなあ。」
「それじゃあ、退職金も出せませんか。」
 五十過ぎた律儀な丸田は、妙な顔をして青木を眺めた。
「退職金について、石村さんは約束したことがありますね。」
 それは事実だった。石村商事を石村証券に切り換える時のことだった。どうせ当分は仕事もあまりあるまいが、諸君の生活は僕が保証する、と石村は社員たちに誓った。そして退職金については、一年間の勤務につき一ヶ月分の給与の割合で出すから、黙って仕事をしていてくれ、と約束したのである。
 丸田はなだめるように言った。
「会社の方はだめですが、心配はいりませんよ。私にはよく分りませんが、商事時代にたくさん儲けていますし、石村さんの資産は相当なものだと思われるふしがあります。社員の退職金なんか問題じゃないでしょう。」
 青木はもう外のことを考えて黙っていた。
「何を考え込んでいますか。景気よくやりましょうや。」
 丸田は酒を誂えて、青木にもすすめた。
「いったい、何が問題なんです。」
 間を置いてだったので、丸田は眼を丸くした。
「石村さんにとって、何が問題なんですか。」
「そんなことは私には分りませんね。」
「万里の長城です。日本に万里の長城を築こうというんです。だから、ばかげてるじゃありませんか。それを誰が言い出したかと言えば、この私です。だから、ばかげてるじゃありませんか。それもこれも、みな酒のせいです。だから、ばかげてるじゃありませんか。」
 丸田は怪訝な面持ちで黙っていた。
「いったい、ひとをやたらに疑ったり、ひとをやたらに信じたりするのが、間違いの元です。だから、何でもないことがスパイに見えたり、何でもないことがスパイのスパイに見えたり、大間違いの結果になります。ばかげてるじゃありませんか。私は断然嫌ですね。みな酒のせいです。だから、私は酒をやめますよ。」
 そして青木は立て続けに酒を飲んだ。
「まったく、今日はあんたはどうかしていますね。」
 覗き込んでくる丸田の顔を、青木は眼を大きくして眺めた。
「あ、丸田さんでしたか。」
「これは、御挨拶ですね。今迄誰と話をしていなすったつもりですか。」
「え、何か言いましたか。聞き流しておいて下さい。少し気持ちが悪くなったんです。ここは地下室でしょう。だから、掘割の水面より低いんですよ、汚い溝の水より低いんですよ。だから、むかむかするんで……。」
 青木は卓にしがみつき、上体を傾けて、胃袋の中のものをげっげっと吐き出した。

 深夜、青木は泥酔してアパートに帰った。だが、泥酔してるのは体だけで、頭はへんに冴えてる気持ちだった。
 妻の登志子はもう眠っていたが、起き上って来た。青木は和服に着換えると、不機嫌そうに叱りつけた。
「もう起きなくても宜しい。早く眠ってしまうんだ。僕は大事な仕事があるから、それを片附けてから寝る。うるさいから、起きてはいかん。」
 茶の間をはさんで、一方が寝室、一方が四畳半の仕事部屋になっていた。青木は冷えた番茶をやたらに飲んで、仕事部屋にはいって寝転んだ。或る種の蜘蛛や甲虫のことを、彼は頭裡に浮べていた。それらの虫は、大敵が身辺に迫ってくるのを感ずると、頭をすくめ足を縮めて、死んだ風を装うのである。人が指先で突っついても、そうする。そしてずいぶん長い間じっとしている。引っくり返しても、身動きもせずに死んだ真似をしている。敵が遠ざかったと感じてから漸く、這って逃げ出すのだ。
 そんなものをどうして思い浮べたのか、彼自身にも分らなかった。そして一方では、胸の中で繰り返していた。「ひと一人を殺すんだ。多少の出血は止むを得ぬ。多少の出血は止むを得ぬ。」
 可なりの長い間、彼はそうしていた。
 それから起き上った。足音をぬすみ物音をぬすんで、道具立てをした。鋭いナイフ……安全剃刀の刄……アドルムの錠剤……オキシフル……絆創膏……繃帯……。それらのものを室の卓上に揃えた。薬缶に湯を沸かし、洗面器でぬるま湯にして、運んで来た。
 座布団を二つに折って枕とし、仰向きに寝そべって、褞袍を胸元までかけ、左手の肱に書物をあてがい、手先が洗面器に浸るようにした。つまり、手首の動脈を切断して、微温湯の中に出血を続けさせ、安楽な死に方をしようというのである。
 彼は暫くの間、寝たまま眼をつぶっていた。それから身を起して、安全剃刀の刄を取った。勿論、アドルムを服用したりナイフを使ったりする必要はなかった。再び元のように寝て、用心しながら左手首に形ばかりの傷をつけた。ずきりとしただけで、殆んど痛みは感じなかった。細い静脈が切れて、血が流れだしてきた。その手首を洗面器の中に浸して、眼をつぶった。
「ひと一人を殺すんだ。多少の出血は止むを得ぬ。多少の出血は止むを得ぬ。」
 時間をはかっていると、思わぬ時に、襖がすーっと開いて、登志子が顔を出した。幽鬼のような気がして、青木は全身ぞっとし、髪の毛が逆立った。青木は飛び起きてそこに坐り、卓上の品々を体で隠すようにした。もうその時には、寝間着に褞袍をはおった登志子が、彼に取縋っていた。
「あなた、なにをなすってるの。あなた……。」
 青木は黙って彼女を押しのけた。それから落着いて、手首を洗い、オキシフルをふりかけ、絆創膏をはり、繃帯を巻き、その端を登志子に結わかせた。登志子は真蒼な顔をして、口も利けないほど怯えていた。
「ばか、なぜ起きて来たんだ。」
 彼女に見られたのが、青木にはひどく不満だった。
 洗面器の微温湯の中には、薄く血の糸が引いていた。それをじっと見やって、青木は漸く心が和やいだ。
 彼は突然言った。「お前は、僕みたいな酒喰いが、好きか嫌いか。」
 登志子は静かに頭を振ってみせた。ふっくらとした頬に寝乱れた髪の毛が幾筋か垂れ、切れの長い眼がもう笑ってるように見えた。
「よろしい。今のは単にお芝居さ。然し、道具立てがなければ、本当の決心はなかなかつかない。僕は酔いどれの僕自身を殺してやったんだ。」
 ところが、その喜劇のおかげで、青木は風邪をひいて、二日間寝込んだ。

 風邪がなおってから、青木は石村証券へ出かけて行った。途中で鮨屋に寄って、酒を飲み、昼食をした。もっとも、酔うほどは飲まず、ただ決心を堅めるために過ぎなかった。
 階段を昇ってゆき、廊下を一曲りすると、磨硝子に石村証券という金字が浮き出してる扉があった。その前を青木は通りすぎて、次の扉の方へ行った。その扉には、石村という金字がはいっていた。青木は小首を傾げた。三日前には無かった文字である。ちょっと佇んでから、彼はノックした。女秘書の小島が扉を開いた。青木の姿を見て、おや、という表情をした。青木は構わず言った。
「石村さんはおいでですか。」
「はい、おいでになります。」
「来客ですか。」
「いいえ。」
「それでは、取次いで下さい。」
 青木は中にはいって待った。やがて、小島に案内されて、社長室に通った。石村は窓際の事務机の上を何か片附けて、立ち上った。
「どうしたんだ。あちらからはいればいいじゃないか。」
「いえ、今日は、会
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