社に来たのではなく、あなたにお目にかかりに来たのです。」
石村はじっと青木の顔を見つめた。
「扉にお名前がはいりましたね。」
「うむ、いろいろ客が多いものだからね。まあ掛け給え。」
それだけの応対が、青木にしては実は強硬な態度に出たつもりだったが、少しも手応えがなく、自分の方が滑稽にさえ思えてきた。彼はいきなり内ポケットから辞職願を取出して、石村に差出し、それから椅子に掛けた。石村は紙片を一読して、相手の顔にぴたりと吸いつくような視線を投げた。
「よろしい。願いとあれば、叶えてあげよう。だが、一身上の都合というのは、どういうことかね。」
「まあ私の、心情に関することと申した方が正しいでしょうか。つまり、平静な心境に自分を置きたいのです。」
「すると、なにかね、この会社にいては、心境が乱されるとでもいうのかね。」
「そういうわけではありませんが、どうも私は我儘で、あなたの意向にも添いかねることがあるでしょうし、また酒飲みで、ふしだらなことを仕出かしそうです。そのようなことが重なったら、あなたはきっと私を馘首なさるでしょう。」
石村は笑った。「まあそうだろうね。」
「だから私は、いつ
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