のだ。
 そんなものをどうして思い浮べたのか、彼自身にも分らなかった。そして一方では、胸の中で繰り返していた。「ひと一人を殺すんだ。多少の出血は止むを得ぬ。多少の出血は止むを得ぬ。」
 可なりの長い間、彼はそうしていた。
 それから起き上った。足音をぬすみ物音をぬすんで、道具立てをした。鋭いナイフ……安全剃刀の刄……アドルムの錠剤……オキシフル……絆創膏……繃帯……。それらのものを室の卓上に揃えた。薬缶に湯を沸かし、洗面器でぬるま湯にして、運んで来た。
 座布団を二つに折って枕とし、仰向きに寝そべって、褞袍を胸元までかけ、左手の肱に書物をあてがい、手先が洗面器に浸るようにした。つまり、手首の動脈を切断して、微温湯の中に出血を続けさせ、安楽な死に方をしようというのである。
 彼は暫くの間、寝たまま眼をつぶっていた。それから身を起して、安全剃刀の刄を取った。勿論、アドルムを服用したりナイフを使ったりする必要はなかった。再び元のように寝て、用心しながら左手首に形ばかりの傷をつけた。ずきりとしただけで、殆んど痛みは感じなかった。細い静脈が切れて、血が流れだしてきた。その手首を洗面器の中に浸して
前へ 次へ
全26ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング