もあります。水草や穴の中から音を立てて出てくるのもあります。水はますます少くなり、魚たちは泥の中に横たわったり跳ねたりします。思いがけない大きいのがいたり、つまらないものばかりだったりします……。
 ――信生を連れてくるんだった。
 恒吉は突然、後悔に似た思いをしました。池のかいぼりをするなら、信生を呼んでやるのでした。信生はどんなに喜んだか知れません。それを恒吉は失念していました。
 ――然し……。
 単なるかいぼりではなく、探査が目的だったのです。池の中に果して、子供がいるか、白骨でもあるか、何か怪しいものでもあるか、それを見届けなければなりませんでした。
 高鳥真作は腕を拱いて、池の中を眺めていました。工員たちも池の中を眺めていました。大井増二郎は室の縁先に腰かけていましたが、時子はいつしか池のふちに出て来て、石像のようにつっ立ち、池の中を見つめていました。辰子もその側に立って池を見ていました。
 四つ目垣の外にも、見物人がありました。近くの人たちでした。恒吉はそちらへ声をかけて、庭の中に招じましたが、誰もはいって来る者はありませんでした。子供たちだけが数人はいって来ました。なにか遠慮ぶかく、ひそひそ囁きあっていました。
 全体が、ちょっと変梃な雰囲気で、好奇心に燃えながら後込みしてるかのようでした。
 恒吉は煙草をふかしながら、池のまわりをぶらつきました。あたりの雰囲気に対して、そして皆の者に対して、皮肉な微笑を浮べたい思いでした。
 そして、実際の池の中にいたのは、魚類だけでした。思いがけなく、真鯉が三尾、あとは小さな鮒や鮠のたぐいでした。昼食に一休みして、午後は底の泥中から塵芥を取り除くことになりましたが、その時に、沢山のエビカニや若干の鰻や泥鰌と、大きな鯰が一匹とれました。塵芥は甚だ少く、木片や竹切が少しくあったきりで、膝頭ほどの泥はわりにきれいでした。
 大きな鉢にいけてある水蓮は、若葉を伸ばしかけていました。崖下の砂地から、冷たい水が可なり湧き出していました。
 恒吉は聊か淋しい気持ちで、やたらに煙草をふかしながら庭をぶらつきました。余りにも予期した通りで、池の中には何一つ怪しいものはありませんでした。愚劣蒙昧に対する挑戦、そんな気概ももうどこかへ消散してしまっていました。――見物人も子供たちが少し残ってるきりでした。
 高鳥真作たちは、池の泥底でただ機械的に働いてるだけでした。辰子は、台所でただ機械的に晩の仕度にかかっていました。大井夫婦は、池の水が干上ると帰ってゆきました。その間、時子は始終、全く口を利かず、木彫のように体を硬ばらせ、表情をすべて奪われたような顔に、切れの長い眼を光らしているだけでした。
 ――すべてが白日に曝されたのだ。何が淋しいのか。
 恒吉は自らそう言って、そして煙草を吹かしました。生け捕った魚類はすっかり、また池へ放してやりました。

 池浚えから、なか一日おいた日の早朝、池の中に大井時子の死体がありました。
 なま温い朝で霧がかけていました。池の水はまだ澄みきらず、薄く濁っていて、水面が重たそうに見え、それに霧がまといついていました。その水面に、浮くともなく沈むともなく、時子の死体が横たわっていました。
 胴体は仰向いて、縞目も分らぬ黒っぽい着物に、帯はしめず、伊達締の赤い模様が浮きだし、裾は乱れて、あらわな足が水中に垂れ、きりっと合せた真白な半襟から、首が少しくねじれて、顔は横向きに、口を開き、鼻から上は乱れた黒髪に蔽われていました。その全体が、痩せて硬ばって、水死人とは見えず、まるで木彫のようでした。
 真先にそれを見つけたのは、いつも早朝に池のほとりを歩き廻る清水恒吉でした。彼は暫く死体を凝視してから、静かな声で辰子を呼びました。
 辰子は大井の家へ馳けだしました。増二郎が来ました。恒吉と増二郎は、死体を庭に引き上げ、それから布団に寝かしました。誰が呼ぶともなく、近くの小屋の人々が集まりました。それから、医者や警官、一通りの調査、葬儀の準備など、きまりきったことが為されました。
 池浚えのあと、時子はひどく無口になっただけで、別に怪しい点も見えなかったそうでした。ただ一つ不思議なのは、池から斜め上に当る崖の上に、嘗ては粗末な稲荷堂があって、小さな石の鳥居がまだ残っていましたが、その鳥居の片足に、赤い布が巻きつけてあるのが、誰からともなく見出されました。その赤い布は前日までは、少くとも数日前までは無かったということでした。また、前日、その辺を時子がぶらついてたということでした。然しそれらのことも確かかどうか分らず、ただの風説程度に過ぎませんでした。
 然し、それらのことは、清水恒吉に深い印象を与えました。崖にのぼる道が少しく先方にありまして、恒吉はそこから鳥居のところへ行きました。
 稲荷堂は焼けたままで、石をめぐらした築土だけになっていました。恒吉は鳥居を眺めていましたが、やがて、その片足にまきつけてある赤い布を、裂き取って地面に打ち捨てました。それから鳥居に両手をかけて、押し倒そうとする身構えをしましたが、俄に顔をしかめて、それをやめ、両手を揉み合せて埃をはらい、振り向きもせずに立ち去りました。
 彼は頬の肉をぴくぴく震わせ、声に出して独語しました。
 ――愚劣蒙昧……だけではない。ばかげてる……そうだ、すべてばかげてる、くだらない。池にしても、田園化した焼け跡にしてもすべてくだらない。そのばかげてるくだらないことが、自由な呼吸を妨げるのだ。
 彼は両手を高く挙げて、大きく深い呼吸をしました。もう晴れやかな顔になっていました。落ち着いた軽蔑の眼眸で、遠くまで見通せる焼け跡の野原を、眺め渡しました。そして家に戻って、その昼間からしまっておいたウイスキーの瓶を取り出して飲みました。
 其後清水恒吉は、池も地所も売り払い、近郊の河のほとりに地所と住宅を買い入れて、そちらへ移り住みました。



底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
   1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「談論」
   1946(昭和21)年8月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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