めはいい加減に聞き流していた清水恒吉も、次第に気になってきました。
「いったい、あなたが本当に考えていられることは、どういうことですか。」
「ですから、その、池を貸して頂いてもよろしいですし、売って頂いてもよろしいですし、池だけでなく、地所全体を貸して頂いてもよろしいのですが……。」
「つまりは、池が問題なんですね。」
 大井増二郎は顔を伏せ、上目使いに相手をちらと見て、慌てたように言いました。
「いえ決して、そのようなわけではございません。ただ思いつきだけでなく、充分考えた上のことですから。」
「だから、その、本当の考えを、打ち明けて貰えませんかね。事によっては、御相談に乗りましょう。」
「そう仰言って頂ければ、実に有難いのです。失礼なことで、お気を悪くなさりはすまいかと、心配しておりました。」
「御近所のことですから、御遠慮なく言って下さい。そこで、池をどうなさるつもりですか。金魚を飼って、喫茶店でも出すと、ただそれだけのことではありますまい。」
「それはもう、金魚なんか、是非にというわけではありませんが、それにしても、このままにしておくのは惜しいものですな。」
「では、どうすれば宜しいんです。」
「まったく、何とかならないものかと、考えてみましたんですが……。」
 それきり、大井増二郎は口を噤んでしまいました。恒吉が更に追求しますと、話は初めに逆戻りして、それからまた、曖昧なところへ落ちこむだけでした。
 ばかげたことだ、と恒吉は思いました。然し正体がはっきりしないだけに、折ふし、気にかかりました。
 池はいつも平静で、あたりに植木が添えられたため、風情を増しました。恒吉は朝に夕に池を眺めて、池を中心にした庭造りなどの考案をめぐらしました。あたりが焼け野原となり、畠が耕作されてるので、普通の庭ではそぐわず、なにか特別な考案の必要がありました。
 そういうことを思いめぐらしてる恒吉の耳へ、へんなことが伝ってきました。
 ――池の中に子供の死体があって、まだそのままになってるというのです。
 ただそれだけの噂でしたが、それが近所で囁き交わされ、かなり拡まっているようでした。辰子がそれを聞きつけて、恒吉にも伝えました。甚だ単純な噂で、何の根拠もないものだけに、却って、銭湯の中や、配給品を受ける行列の中などで、お上さんや娘たちの間で囁かれて、拡まったのでもありましょうか。どこの子供のどういう死体かさえも分りませんでした。
「まったく嫌な話だわ。」と言って辰子は額に皺を寄せました。
 恒吉は笑いました。
「うちの池が美しいから、誰かが妬んで、そんな噂を作りだしたんだろう。」
 然し辰子にしてみれば、なんだか不気味で、笑って済ませられもしませんでした。噂の元をつきつめたく思いましたが、打ち明けて聞けるほどの懇意な人もありませんでした。昔からの隣り近所の人たちは遠くへ散らばっていましたし、ぽつぽつと、壕生活やバラック生活をはじめてる人たちに、親しいのもありませんでした。思いあぐんだ辰子は、或る時、ちょっとした買物のついでに、大井増二郎の店先に腰を下して、お上さんの時子と世間話をしたついでに、例の噂のことを持ち出してみました。
 時子は辰子より少し年下で、ちょうど三十歳でしたが、へんに知能の低いところがあり、偏屈なところがありました。
 辰子が笑いながら、噂のことを持ち出しますと、時子は俄に顔色を変えて、口を噤んでしまいました。頬骨の少し張った、鼻の低い、丸みがかったその顔は、蝋細工のようになり、切れの長い眼だけが、作りつけのもののようで、光ってきました。
 辰子はなにかぎくりとして、黙りこみました。
 時子はじっと辰子を見つめました。暫くしてふいに言いました。
「それは本当ですよ。」そしてはっきり頷きました。「あの池には、子供がはいっております。」
「え、御存じですか。」と辰子は叫びました。時子は低い確実な声で繰り[#「繰り」は底本では「燥り」]返しました。
「あの池には、子供がはいっております。」
「どこのお子さんですか。」
「雪子と同じ子供です。」
 雪子というのは、時子の一人娘で、罹災の時になくなったことを、辰子も知っていました。生きておれば今年五歳になるのでした。
「雪ちゃんと同じだといいますと……。」
「同じ子供です。あの池の中にはいっております。」
「同じだというと、どういうことなんでしょう。そして、いつはいったのでしょう。」
「同じ子供です。ずっと池にはいっております。でも、そのうちに出て来ますよ。」
「え、出て来ますって。」
「出て来ます。」
 辰子は言葉につまり、息もつまるような気がしました。時子の光った眼が、辰子を見つめたままで、まばたき一つしませんでした。その眼から、涙がほろりと流れましたが、やはりまばたきもしないで見つめています。
 辰子は堪えきれなくなって、立ち上り、会釈もそこそこに出てゆきました。じっと見つめてる眼を、背中に感じ、外を歩いてる時まで感じました。
 そのことを、会社から帰ってきた恒吉に、辰子は待ちかまえて話しました。
「あの人、気が少し変じゃないでしょうか。」
 恒吉は黙って、辰子の話を聞きました。聞き終っても黙っていました。
「ほんとにおかしいんですよ。」と辰子は囁きました。
「厄介なことになったな。何とかしなくちゃなるまい。」
 恒吉はそう呟きましたが、やがて、晴れ晴れと眉根を開きました。
「うむ、分ったよ。大井の話が、だいたい分ってきた。」
 そして、翌日、恒吉は大井増二郎を呼んで、突き込んだ話をしました。
 増二郎はしきりに謝り、恐縮していました。
「実は、打ち明けて御相談いたそうかとも思いましたが、なにぶん、申しにくいことですし、いろいろ考えあぐみましたものですから……。」
 然し、恒吉から見れば、申しにくいことではなかったのです――罹災の時に、雪子は亡くなり、その葬式もりっぱに済んでいる。ただ、時子の頭に、雪子と同じ子供が池の中にはいっていると、そういう幻想がどうして生れたか、それは不明だが、とにかく、その幻想を取り除けばよいことなのだ。
 恒吉はなんだか腹がたってきました。
「よけいな心配をしないで、ただ、そういう幻を、お上さんの頭から逐い払えばいいじゃありませんか。それくらいのことが、出来ないんですか。」
「それはもう、私もよく考えてみましたが、なにぶん、あの時のことがはっきりしませんので……。」
 そして大井増二郎の語るところはこうでした。――焼夷弾が、ざざーっと降ってきた。至る所にぱっと閃光が起り、爆音が聞え、火焔が流れ、夜は蒼白くなり、次に赤くなり、そしてどの家も一斉に燃えだした。警防団員として警戒に当っていた増二郎は、もう警戒どころではなく、火のトンネルの中をくぐって、自家に辿りつくと、その辺には人影もない。無人の家々がただ燃えている。火の粉を含んだ煙が渦巻いている。それを突き切ると、右往左往してる群衆の中に出た。時子や雪子は見当らなかった。聞いても分らなかった。崖に穿たれた共同防空壕を覗いたが、そこにはもう誰もいない。増二郎は殆んど無我夢中で駆け廻った。そして幸にも、かなり遠くで時子を探し出した。時子はまるで痴呆のようだった。雪子を抱いて、全身ずぶ濡れになっていた。防空壕を出るとたんに、煙にまかれ、それから池の中につかっていた、とそれだけしか覚えていなかった。両腕のなかの雪子は、もう身動きもせず、息もしていなかった。そして二人は焼け残ってる寺に辿りつき、雪子の死体のそばで一日を過した。
「そのようなわけで、雪子がどこで息を引き取りましたのやら、時子にもさっぱり分らないのです。」と増二郎は話した。
 ――彼等はその寺に雪子を葬った。そして、川越の知人のもとに身を寄せていた。増二郎はしばしば東京に出て来て、将来の計画をした。年が明けてから、ささやかな家も焼け跡に出来、つまらない雑貨を商うようになった。ところが、焼け跡の住居に出て来てから、時子の様子が変ってきた。たいへん憂鬱だったのが、快活になった。それはよいが、快活の合間に、まるで物に憑かれたような瞬間が起った。そんな時、雪子と同じ子供があの池の中にはいっていると、増二郎に囁くのだった。あの池とは、清水家の池で、罹災の時に彼女がつかっていた池である。池にはいっている子供は、雪子ではないが、雪子と同じ子供なのだ。時子は雪子の墓にもよく詣る。それでもやはり、雪子と同じ子供が池の中にいるのだ。それが、やがて池から出て来るに違いないのだ。そうした彼女の思念は、深く根を張って、どうにも出来ない。増二郎はさんざん持てあまし、また可哀想にもなり、それにまた、このままでは怪談の種をまいて池にけちをつけることにもなるので、まあ、出来ることなら、池を借りて、そこで時子を遊ばせたら、時子の気持ちも常態に復するだろうと、そんな風に考えたのだった。
 それを聞いてるうちに、恒吉はますます忌々しくなりました。
「子供のことを口走るのだと、ただそればかりではないでしょう。」
「いえ、それだけですが、ただ一二度夜中に起き上って、子供を見てくると言って、出て行こうとしかけたことがありました。まったく、それだけのことですが。」
 大井増二郎は頭を垂れて、どうともしてほしいというような様子でした。恒吉は怒鳴るように言いました。
「それで分りました。少し考えてみましょう。」

 清水恒吉は憤りの心地を覚えました。大井増二郎に対してでもなく、時子に対してでもなく、空襲の被害についてでもなく、その話全体について、またそんな話が起ったということについて、憤りを禁じ得なかったのでした。
 ――なんという愚劣な蒙昧なことだろう。
 それから、その全体の愚劣蒙昧さに対して、挑戦する気持ちになりました。挑戦の方法として、池浚えを考えました。
 恒吉は会社で、高鳥真作に逢って、池浚えのことを相談しました。
 真作は眼を丸くしました。
「やはり出ますか。」
 それを問いつめますと、真作は打ち明けました。――移転少し前のこと、或る夜池の中に女の姿がしょんぼり立っていた。それが確かに見えた。しばらく見つめてるうちに、女の姿はすーっと向うへ行って、消えてしまった……。
 恒吉は顔をしかめました。
「だから、そんなことがありましたから、やはり、池を浚えてみた方が宜しいですよ。大丈夫、引き受けました。社のポンプを使えば、わけはありません。」
 恒吉はただ仕事だけを頼みました。
 ――ここにも、愚劣蒙昧のはしっくれがある。恒吉は全く挑戦の決心をしました。高鳥真作に池浚えをやらせ、大井増二郎夫婦を招いてそれを見させることにしました。そんなことをして、或は、新たな噂の種をまくことになるかも知れませんが、構うことはないと思いました。
 ――池の中に何も怪しいものがあるわけではない。それを白日のもとに曝してやるのだ。
 恒吉は昂然と池を眺めました。愛すべき美しい池でありました。
 日曜日の朝、高鳥真作は、三人の工員にポンプを引っぱらしてやって来ました。大井増二郎夫婦は室の中へ招じられました。
 断雲が空に流れて、陽が照ったり陰ったりしました。
 池浚えははじまりました。エンジンは軽快な音を立て、池の水はポンプに吸いあげられて、徐々に減ってゆきました。水面はいつもより一層平静で、殆んど分らないほどに低下してゆきました。その水面が後には、次第に中央から凹んでくるようになりました。周囲の方は岸辺にねばりついて低くなるのを嫌がり、中央の方から先に低くなって、周囲の方を引きずり落してゆく、そういう様子です。その水面に時折、波紋が起って、何か動くもののある気配を示しました。その動くものが、やがては、否応なく姿を現わすに違いありません。何がいるか分りませんが、確かに何かいるのです。
 恒吉は、幼いころ田舎でかいぼりをやったことなどを、思い出しました。川や小さな淵などを堰きとめ手桶で水を汲みほすのです。水が少くなると、盛んに波紋が立ちます。いろいろな魚があわて騒いでいるのです。水面から跳ね上るの
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