食してる姪の辰子、それだけでした。東京が空襲に曝されるようになると、浦和の近くに住家を一つ求めて、そちらへ疎開し、辰子が東京の家を守り、恒吉は両方を往き来しました。東京の家が焼けると、皆揃って浦和近くの方へ住みましたが、焼け跡に家が建ってから、まず恒吉と辰子だけ戻って来たのでした。家が狭いので、全員そろって住むわけにはゆきませんでした。そしてこんどは、政子と信生とが、時々東京へ出て来ました。田舎で家鴨に親しんだ信生は、東京の家にも家鴨がほしくなり、それを池に泳がしたがりました。
「なるほど、家鴨もよろしいですな」と高鳥真作は言いました。
「池には、鯉に亀はつきものですが、家鴨もまた……。」
「鯉や亀は、どうせ入れるつもりだが、然し、家鴨はねえ……。やたらにそこいらじゅう、つっつき廻るだろうし、どうしたもんかな。家鴨を飼うくらいなら、いっそ、鵞鳥でもいいわけだが……。」
 白い水鳥が池を泳ぎ廻ってるさまが、楽しく想像されました。ところが、しばし沈黙のあとで、高鳥真作は急に眉根を寄せました。
「家鴨か、鵞鳥か、そんなものを、ほんとに池へお放しなさるつもりですか。」
「それも面白かろうと思うがね。」
「まあ……お止めなすったらどうでしょう。泳いでるだけならいいが、水にもぐったり、泥をかきたてたり……第一、芹なんかだめになってしまいますよ。」
 俄に意見が変りましたので、その真作の顔を、恒吉はじっと眺めました。眉の太い、陽に焼けた純朴な顔に、なにか落着かない色が浮んでいました。
「いちど、池浚いをなすったら、どうでしょうかなあ。」と彼は溜息のように言いました。
「池浚いとは、また、どうしてだね。」
「いえ、ただ浚ってごらんなすったらどうでしょう。ずいぶん古い池ですからな。」
「そりゃあ古いよ。然し、あの通り、湧き水はしてるし、水蓮の花は咲くし、浚えることなんかないだろう。この辺が焼けた時、少しは物も投げ込まれたようだが、それもすっかり引き上げられたらしい。鯉や鮒まで、獲りつくされたんだからね。よってたかって浚えてくれたよ。きれいな、さっぱりしたものさ。」
 実際、池は罹災前よりも綺麗になったようでした。藻がたくさん生えていましたが、ふしぎにそれさえ無くなりかけていました。恒吉は習慣的に早起きで、起き上るとすぐ庭に出て、池を見るのが楽しみでした。早朝の池の面は、水面に更に露がおりたような新鮮さを持っていました。彼に言わせますと、池の水には死んだのと生きたのとがあり、死んだ水の面には夜露はおりないが、生きた水の面には夜露がおりるのでした。その夜露のおりた水で顔を洗ったら、さぞ爽快だったでありましょう。だがそれだけは、この池では、恒吉もしませんでした。下水が流れ入るわけではありませんけれども、都会のなかの池の水には、やはり、都会の埃がしみこんでいました。ところが、今、あたりは焼け野原となり、その野原には、畠があちこちに作られ、麦の葉がそよぎ、蚕豆の花が咲きそめ、いろんな菜っ葉が伸びだして、つまり、大地の肌が薄汚い人家の古衣を脱ぎすてて真裸となり、春の息吹きをすることが出来るようになりますと、池も水もすっかり新鮮になったようでした。けれどもやはり、恒吉はそこで顔を洗えませんでした。
 ――俺の方がやはり都会人で、野人になりきれないからだ。
 そういう淋しさが却って、池に対する愛着を増させました。
 彼は酔うに随って、池のことをいろいろ語り、石についてる苔のことや、水すましのことや、蜻蛉の幼虫のことや、小鮠《こはや》のことや、水蓮のことや、その他さまざまなことを語りました。朝の太陽が池に映って、その太陽のなかに、竜の姿が……実はたつのおとしごのような姿が、はっきり見えたことなどを語りました。
「それ、その竜の姿は、どんな風でしたか。」
 高鳥真作は眼を光らして尋ねましたが、恒吉は笑いました。
「だからさ、たつのおとしご、知ってるだろう、あれみたいなものだと言ってるじゃないか。」
 恒吉はもう酔っていました。真作も酔ってきました。
「とにかく、何がいるか、池浚えをやりましょう。会社にポンプもあればガソリンもあります。工員を二三人ひっぱって来れば、充分でしょう。早速とりかかりましょう。」
「まあいいよ。水蓮が花を出さなかったら、その時にしよう。」
「水蓮の花なんか、今年は出ませんよ。」
「いや、きっと出る。」
「出ませんよ。」
 出たら、それを見ながらまた酒を飲もう、出なくても、飲みましょうと、そんなことで話を終り、真作は泊ってゆくことになりました。そして、池浚えの一事だけが恒吉の頭に残り、やがて、それが強く思い出されることになりました。

 清水恒吉の家から、畠ごしに少し距ったところに、小さな家が一つ建って、夫婦者が住んでいました。罹災前は雑貨商
前へ 次へ
全7ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング