ただ機械的に働いてるだけでした。辰子は、台所でただ機械的に晩の仕度にかかっていました。大井夫婦は、池の水が干上ると帰ってゆきました。その間、時子は始終、全く口を利かず、木彫のように体を硬ばらせ、表情をすべて奪われたような顔に、切れの長い眼を光らしているだけでした。
 ――すべてが白日に曝されたのだ。何が淋しいのか。
 恒吉は自らそう言って、そして煙草を吹かしました。生け捕った魚類はすっかり、また池へ放してやりました。

 池浚えから、なか一日おいた日の早朝、池の中に大井時子の死体がありました。
 なま温い朝で霧がかけていました。池の水はまだ澄みきらず、薄く濁っていて、水面が重たそうに見え、それに霧がまといついていました。その水面に、浮くともなく沈むともなく、時子の死体が横たわっていました。
 胴体は仰向いて、縞目も分らぬ黒っぽい着物に、帯はしめず、伊達締の赤い模様が浮きだし、裾は乱れて、あらわな足が水中に垂れ、きりっと合せた真白な半襟から、首が少しくねじれて、顔は横向きに、口を開き、鼻から上は乱れた黒髪に蔽われていました。その全体が、痩せて硬ばって、水死人とは見えず、まるで木彫のようでした。
 真先にそれを見つけたのは、いつも早朝に池のほとりを歩き廻る清水恒吉でした。彼は暫く死体を凝視してから、静かな声で辰子を呼びました。
 辰子は大井の家へ馳けだしました。増二郎が来ました。恒吉と増二郎は、死体を庭に引き上げ、それから布団に寝かしました。誰が呼ぶともなく、近くの小屋の人々が集まりました。それから、医者や警官、一通りの調査、葬儀の準備など、きまりきったことが為されました。
 池浚えのあと、時子はひどく無口になっただけで、別に怪しい点も見えなかったそうでした。ただ一つ不思議なのは、池から斜め上に当る崖の上に、嘗ては粗末な稲荷堂があって、小さな石の鳥居がまだ残っていましたが、その鳥居の片足に、赤い布が巻きつけてあるのが、誰からともなく見出されました。その赤い布は前日までは、少くとも数日前までは無かったということでした。また、前日、その辺を時子がぶらついてたということでした。然しそれらのことも確かかどうか分らず、ただの風説程度に過ぎませんでした。
 然し、それらのことは、清水恒吉に深い印象を与えました。崖にのぼる道が少しく先方にありまして、恒吉はそこから鳥居のところへ行きま
前へ 次へ
全13ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング