て、新たな畠がつくられつつありました。そしてぽつりぽつり、と小さな住居が建てられていました。崖上から崖下一帯にかけて、広範囲な焼け跡で、遠くを通る人の姿まで見通せ、すっかり田園の風致でした。
 池のそばにも、小さな家が一つ作られました。はじめはトタン葺きのバラックでしたが、後には瓦葺きの建物となりました。池をこめて二百坪ほどの地所が、清水恒吉の所有でありまして、そこを他人の使用に放任しないために作られたトタン葺きの小屋には、恒吉と同じ会社に勤めてる高鳥真作が住みました。其後、真作が他に住居を得て移転してから、小屋は取り壊され、ささやかながらも瓦葺きの住宅が建てられて、恒吉が姪の辰子と共に住みました。電灯もつき、水道も出ました。崖の横腹に穿たれた嘗ての防空壕が、恰好な物置となりました。
 春になっても、子供たちはもう池へ遊びに来ませんでした。地所の三方には竹の四つ目垣が結い廻され、八手《やつで》の青葉などが所々にあしらわれ、一方の崖には、焼け残った灌木が芽を出し、蔦や蔓が延びました。
 或る日、かねての約束どおり、高鳥真作が植木をトラックで運んできました。楓、桜、梅、檜葉、梔子《くちなし》、無花果《いちぢく》、沈丁花、椿など、雑多な樹木で、熊笹の数株まで添えてありました。清水恒吉は全く快心の笑みを浮べ、真作と二人で、それを庭のあちこちに植えました。家よりも寧ろ池を中心に、いろいろと案配し、幾度も植えなおしたりして、一日中かかりました。
 夕食には、酒が出され、牛肉が煮られました。肉鍋への野菜としては、葱と共に芹がありました。この芹が恒吉の自慢で、池の水の落ち口あたりに自生してるのでした。真作は鍋の芹をつまみながら言いました。
「まったく、結構ですな。」
 恒吉は猪口をあげました。
「東京では、牛鍋といえば必ず葱だが、葱よりも芹の方がうまい。もっとも、この節のように砂糖がなくては、芹はだめだがね。丁度よかったよ。辰子が砂糖を少し残しておいてくれたし、池には芹が残っていた。女も池も、どちらもまあ、物の始末がいいよ。」
 それから彼は、池に家鴨《あひる》を四五羽飼おうかと思ってることを打ち明けました。それは、彼よりも寧ろ孫の信生の望みでありました。――恒吉はもう五十歳を越していました。一人息子の信彦は北京に行っていて、家族には、信彦の妻の政子と子供の信生、婚家先から戻って寄
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