――なんという愚劣な蒙昧なことだろう。
 それから、その全体の愚劣蒙昧さに対して、挑戦する気持ちになりました。挑戦の方法として、池浚えを考えました。
 恒吉は会社で、高鳥真作に逢って、池浚えのことを相談しました。
 真作は眼を丸くしました。
「やはり出ますか。」
 それを問いつめますと、真作は打ち明けました。――移転少し前のこと、或る夜池の中に女の姿がしょんぼり立っていた。それが確かに見えた。しばらく見つめてるうちに、女の姿はすーっと向うへ行って、消えてしまった……。
 恒吉は顔をしかめました。
「だから、そんなことがありましたから、やはり、池を浚えてみた方が宜しいですよ。大丈夫、引き受けました。社のポンプを使えば、わけはありません。」
 恒吉はただ仕事だけを頼みました。
 ――ここにも、愚劣蒙昧のはしっくれがある。恒吉は全く挑戦の決心をしました。高鳥真作に池浚えをやらせ、大井増二郎夫婦を招いてそれを見させることにしました。そんなことをして、或は、新たな噂の種をまくことになるかも知れませんが、構うことはないと思いました。
 ――池の中に何も怪しいものがあるわけではない。それを白日のもとに曝してやるのだ。
 恒吉は昂然と池を眺めました。愛すべき美しい池でありました。
 日曜日の朝、高鳥真作は、三人の工員にポンプを引っぱらしてやって来ました。大井増二郎夫婦は室の中へ招じられました。
 断雲が空に流れて、陽が照ったり陰ったりしました。
 池浚えははじまりました。エンジンは軽快な音を立て、池の水はポンプに吸いあげられて、徐々に減ってゆきました。水面はいつもより一層平静で、殆んど分らないほどに低下してゆきました。その水面が後には、次第に中央から凹んでくるようになりました。周囲の方は岸辺にねばりついて低くなるのを嫌がり、中央の方から先に低くなって、周囲の方を引きずり落してゆく、そういう様子です。その水面に時折、波紋が起って、何か動くもののある気配を示しました。その動くものが、やがては、否応なく姿を現わすに違いありません。何がいるか分りませんが、確かに何かいるのです。
 恒吉は、幼いころ田舎でかいぼりをやったことなどを、思い出しました。川や小さな淵などを堰きとめ手桶で水を汲みほすのです。水が少くなると、盛んに波紋が立ちます。いろいろな魚があわて騒いでいるのです。水面から跳ね上るの
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