から聞かされて、山川正太郎はちと意外に思いました。ところが、それに関する上原稔の話は、更に意外なものでありました。
 概略しますと、次のような話でありました。この八十噸のミガキ鋼板は、公定価格の三倍ほどの時価で、直ちに引受者がある。つまり、八十万円ほどになる。ところで、今回、山川さんが某政党に領袖の一人として加入するについて、相当の金が必要である。そこで、右の鋼板を売却したいと思うが、如何であろうか。
 それが、塚本老人からの申し込みでありました。
 上原稔は反対しました。
 塚本老人は説きました。――山川家のためだから、まあ我慢して貰いたい。鋼板をそっくり転売してしまっても、職工たちに仕事が不足するわけではあるまい。真鍮の屑物が多量あるから、それを加工すればよかろう。また、たとい鋼板を扱って、各種の器物を製造するにしても、多くの熱量を要することだし、その辺の見通しが困難ではあるまいか。すべて山川家のためだから、よく考えておいて貰いたい。
 その話、大旦那が亡くなったばかりのところではあるし、若旦那にはさし当り内分にとの話を、上原稔は山川正太郎に打ち明けてしまいました。
「私はただ、職工達を存分に働かしてやりたいと思っています。みな、立直った気持で、働きたがっております。鋼板は彼等の手に渡してやって下さい。同額の給与を貰っても、遊んでいるより働く方が本望だと、そういう彼等の意気を、私は涙の出るほど嬉しく思います。それで、お願いに出ました。」
 額が晴れやかで、色が黒く肉のしまった、その上原稔の熱情は、山川正太郎にも伝わりました。けれどその時は、山川正太郎はただ次のように答えました。
「よく分りました。もう少し考えた上で善処しましょう。」
 山川正太郎は眉をひそめました。何か陰謀に似た影を感じました。そして、塚本老人に問い訊してみようと思いながら、その、慇懃な態度にくるまった無表情に当面すると、何も言い出しかねました。
 そういうことのために、宴席で斡旋してまわってる塚本老人の姿は、山川正太郎の心を刺戟[#「刺戟」は底本では「剌戟」]しました。そしてますます、決意に似た感慨をそそりました。
 まったくのところ、決意に似た感慨にすぎませんでした。終戦後、民主主義の線に沿う社会革命が、急速に進みつつあるような外観を呈しながら、実は健全に進行するかどうかの見通しは未だつきませんでしたし、殊に経済的には、如何なる混乱が突発するか分りませんでした。その不安定な時勢のなかで彼は、恰も戦争中に積極的に動かなかったように、やはり積極的に動こうとはしませんでした。ただ、飲酒と無為との独自孤高な生活を、これではいけないと思いました。なにか新たな生活を、幻想的に追求しました。資産の危殆も却って快いものに思われました。そして新たな出発線を、亡父の五十日忌に置きました。そういうものに頼ったところに、彼の決意の浅さ弱さがあったとも言えましょうか。
 それでも、決意に似た感慨は、深くそして痛く、ともすると彼はよろけそうになりました。
 新らしい某政党の若い総務の本間利行が、帰りぎわに、彼をちょっと物蔭に呼びました。
「あなたもぜひ、党で大いに働いて貰わねばなりません。自重して下さい。それから、ミガキ鋼板のことは、万事承知していますから、御安心願います。」
 囁いたまま、返事も待たず、玄関の方へ出て行きました。
 それを見送るのに、山川正太郎は苦痛を感じました。そして玄関から引返すと、ベランダの椅子に腰を据え、柿酒の瓶を引きつけ、酔態を意識的に装って、もう誰の見送りにも立とうとしませんでした。
 後れて辞し去る上原稔を、彼は呼びとめました。
「君はまだいいよ。も少し飲もう。」
 上原稔はちょっと躊躇しましたが、腰を下しました。
 二人は黙っていました。上原稔は山川正太郎の眼を見ました。山川正太郎も、相手の眼を見返しました。それから視線は分れました。やがてまた視線が合いました。
「飲み給えよ。」と山川正太郎は言いました。
 上原稔もグラスを手にしました。
 そして、飲んでいるうちに、何か光に似たものが、山川正太郎の頭に浮びました。それが何であるかは、まだはっきり掴めませんでしたが、小さな皺を寄せていた彼の額の皮膚は伸び拡がり、眼眸は輝いてきました。
 彼は手を差し出して、上原稔の骨張った頑丈な手を握りました。そして言いました。
「吾々のために乾杯しよう。僕は君の身方だ。」
 上原稔は眼をしばたたきました。
「これが、先日の君への返答だ。」
「分ったね。」
 俄に大きく見開いてじっと見つめた上原稔の眼は、涙にぬれてきました。その眼を伏せて、彼は言いました。
「分りました。」
「鋼板は、明日からでも、どしどし使い給え。君に任せる。僕も、出かけるよ。いいだろうね。」

前へ 次へ
全5ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング