上原稔は頭を下げました。
「さあ乾杯だ。あけ給え。」
飲みほしたのへ、二つとも、山川正太郎はなみなみとつぎました、そして二人一緒に、グラスを挙げて、一息に飲みました。
上原稔はグラスを卓上に置きました。それより先、山川正太郎は飲みほすなり、グラスを床板に叩きつけました。薄手に彫りがあり足のついた高杯で、微塵に砕け散りました。
最後まで居残っていた二人の客が振り向きました。茶を出していた女中が急いで来ました。そのあちらに、加納春子の静かな眼がありました。その眼から、何か刺される[#「刺される」は底本では「剌される」]ようなものを山川正太郎は感じて、顔をそむけ、戯れのように上原稔に言いました。
「これが、ほんとの乾杯の作法だ。」
その時の加納春子自身、いま、上原稔がいたところに腰を下して、山川正太郎の前にいました。
山川正太郎は沈黙の後に言いだしました。
「いよいよ、あなたにも、返答をしなければならなくなりましたが……。」
彼女は心持ち大きく眼を見開きました。その顔は微笑んでいるかのような静けさでした。
「何の御返答でございましょうか。」
「いや、あなたと私と、二人に対する、私自身の返答です。」
彼女の両の眉が、ちらと寄りあいました。
山川正太郎は室内をまた見渡しました。もう誰もいませんでした。電灯の光りがまじまじと明るいだけでした。
「塚本さんは、もう帰りましたか。」
「さきほどまでおいででしたが、もうお帰りになったと思います。」
もっとも、塚本老人は、近くに住んでいましたので、帰り去ってもすぐに再来することはよくありました。それを、山川正太郎が尋ねましたのも、実は、他のことを考えていたからでありました。
或る時、塚本老人は言いました。
「あの加納さんは、よく出来た方でございますね。万事しとやかで、そして、何事にもよく気がつかれますよ。お母上の従兄筋にあたる加納家の末の娘さんですから、御当家とも深い縁故がおありになります。その故でもありますまいが、お母上には、まるで御自分の娘のように、お気に入っていられますようでございますね。」
そんなことを、山川正太郎に向って言う塚本老人の真意は、まだ明かでありませんでした。だが、そこにも、なにか陰謀めいたものを、山川正太郎は感ずるのでした。
山川正太郎はじっと加納春子の顔を見て、言いました。
「あなたは、どういうことになろうと、あの塚本さんを、恐れはしないでしょうね。」
「これまでも、あまり気にかけたことはありませんし、今後とて、その通りだろうと思います。」
なにか怪訝そうに、彼女は彼の方を見つめました。
「それでは、言いましょう。信一君をこちらへ連れてきて、この家に住みませんか。」
その問いが、実は返答でありました。
彼女の子の信一は、鎌倉にある山川家の別荘にいるのでした。はじめは彼女も、そちらにいましたが、彼女の若い叔父さんたち一家が戦災にあって、その別荘に住むようになってから、東京の山川家に事ある毎に、彼女は手伝いに出て来ました。そして次第に、山川家に寝泊りすることが多くなり、殊に、正吉の病気から死去から仏事へかけては、山川家の一員のようになって働きました。そういう状態も、もういずれかへ決定すべき時期になったのでありました。つまり、彼女は信一と共に鎌倉に住むか、山川家に住むか、どちらかにすべき場合でありました。
ところで、二人の情愛の問題につきましては、山川正太郎が多年守り通してきた独身主義と、加納春子の子の信一と、両方を互に尊重して、結婚は最初から問題でありませんでした。それを前提として考えますれば、彼女が鎌倉に住むことは、或は情愛を通じ合う途があるかも知れぬことになりますし、彼女が信一と共に公然と山川家に住むことは、情愛を封殺することになるのでした。それが、彼等の人間としての道義でありました。この点も、暗黙の間に理解されていました。
山川正太郎の返答を聞いて、加納春子はぽっと頬に赤みをさしました。そしてじっと宙に眼を据えました。
彼女の頬の赤みが引いてしまう頃、山川正太郎は涙ぐんで感傷の底に沈んでゆきました。その底から泳ぎ上ろうとするかのように彼は言いました。
「この決心は、いけないでしょうか。」
彼女は大きく息をついて、静かに言いました。
「あたくしも、それより外に途はないと思っておりました。」
彼女は両の眉が心持ち寄りあったまま、微笑みました。
「乾杯して頂けますかしら……。」
山川正太郎は立ち上りました。そして二三歩あるいて、言いました。
「あなたのその額の痣は……どうして出来たのか、聞かして下さい。」
彼女は、彼が驚いたことには、ほんとににっこり笑って、話しました。
けれど、彼女のその話も、すこぶる曖昧なものでした。或る時、
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