なさい。」
耳を傾けると、しいんと静まり返った夜更けで、風までがぱったり止んでしまって、何の物音もしませんでした。
「この家には鼠一匹居ないようですね、」と私は云いました。
叔母はぴくりと眉根を動かしたきり、何とも答えませんでした。けれどもやがて、また戸を叩く音がすると云い出したんです。私も少し気にかかって、兎に角も見て来ることにしました。
茶の間を出て、階段の横の薄暗い廊下を通り過ぎて、何の気もなく階段を見上げながら、一寸薄ら寒い気持になり、それから玄関の障子を開くと……ぼんやり輪郭のぼやけたものが……ぼーっとした影が、其処につっ立ってるのです。おや! と思って一歩退ると、影がむくむく伸び上ったのです。「何だろう!」と思った途瑞に、がーんと響く大声で、「俺だ!」
ぞーっと冷たいものが全身に流れて、私は其処に棒立ちになってしまいました。が次の瞬間には、もう影も何も消えてしまって、茫っとした薄ら明りが玄関に一杯湛えています。気がついて見ると、ついてた筈の玄関の電灯が消えています。それで私はまたぞっとして、茶の間に引返すはずみに、後からついて来てる叔母に突き当りました。
「あなたにも聞えましたか。」と私は息をはずまして尋ねました。
「え? 何が?」
叔母の顔は俄に真蒼になりました。
私はほっと息をつきました。そして茶の間に戻りながら、夢からさめたような心地で明るい電灯の光を眺めました。
私はその話を叔母へは――また誰にも――決してしませんでしたが、叔母はその家が何だか陰気で不気味だというので、間もなく他へ引越してしまいました。そして影のことは、それきりになってしまいました。
底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2005年12月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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