影法師
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)東の端《はし》に
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一
うしろに山をひかえ前に広々とした平野をひかえてる、低いなだらかな丘の上に、小さな村がありました。村の東の端《はし》に、村一番の長者《ちょうじゃ》の屋敷《やしき》がありまして、その塀《へい》の外の広場は、子供たちの遊び場所でした。
白く塗った土塀《どべい》、左手はゆるやかな山すそで、いろんな灌木《かんぼく》や草がはえています。前には小さな川が流れていて、魚が泳いでいます。川の向こうと右手の方には、たんぼが続いています。子供たちはその広場でおもしろく遊ぶことが出来ました。
晴れた日の朝早く、長者の子供を交《まじ》えて三四人の子供が、いつものように、そこで遊んでいました。東の地平線から出たばかりの太陽の光りが、皆の影を白い壁にくっきりとうつしていました。その影があまりはっきりしておもしろいので、皆は影うつしの遊びを始めました。
「ああ、いいことを考えた」と長者の子供がふいに叫びました。「待っといでよ、じきに来るから」
そして長者《ちょうじゃ》の子供はいきなり駆け出して、うちの中にはいって行きました。
お祖父《じい》さんが、大きなまんまるい眼鏡《めがね》をかけて、縁側《えんがわ》で本を読んでいました。
「お祖父さん、僕にあの……東の塀《へい》を下さいよ」と子供は言いました。
お祖父さんは、まんまるい眼鏡の下にびっくりした眼を開いて、子供を見ました。
「なに、塀をくれって……」
「ええ、下さいよ。おもしろいことがあるんです。こわしやしません。ただ遊ぶだけなんです。塀で遊ぶんです。ね、いいでしょう」
「塀で遊ぶって……おかしなことを言う子だね。こわしさえしなければよいけれど……」
「じゃあ下さいね。遊ぶだけなんですから」
そして子供はもうお祖父さんの側から駆け出して、部屋の中にはいって、大きな硯箱《すずりばこ》を持ち出して、またもとの塀の外に駆けてきました。
「何をするの」
待ってた子供たちが集まってきました。
「今ね、この塀をお祖父さんからもらってきたんだ。だから、こわしさえしなけりゃ、何をしたって叱《しか》られやしないよ……これから皆の影法師《かげぼうし》を、この塀の上に写し取るんだよ」
「影法師を写し取る……うん、おもしろいな」
皆はわーっと声を立てておもしろがりました。そしてすぐにそのしたくにかかりました。小川の水を硯にくみ取って、一生懸命に墨《すみ》をすりました。早くしないと、太陽が昇ってしまいます。太陽が昇ってしまえば、影法師《かげぼうし》は小さくなってだめなんです。
「僕が考えたんだから、僕が先だよ」
そう言って長者の子供は、白い塀《へい》の前につっ立ちました。その姿通りの影が、白塀《しろべい》の上にはっきりうつりました。それを他の子供たちが、墨《すみ》をいっぱいふくました筆で写し取りました。
「影法師なんだから、すっかりまっ黒に塗らなけりゃいけないよ」
そして皆は影法師の形をまっ黒に塗り始めました。硯《すずり》の水がなくなると、また小川の水を汲《く》んできて墨をすりました。
そのうちに、太陽はずんずん昇っていって、塀にうつる影法師は小さな不格好なものになりましたので、長者の子供一人のだけで、他のは写し取れませんでした。
「また明日の朝にしよう」
二
毎日晴れた日が続きました。子供たちは朝早くから白塀の前に集まって、かわるがわる影法師を写し取りました。
そのことをおもしろがって、他の子供たちも集まって来ました。そして太陽が出たばかりの頃、日に二つか三つずつ影法師を写し取りましたが、日がたつにつれて、塀いっぱいたくさんになってきました。高いのや低いのや、肥《ふと》ったのややせたのが、皆まっすぐを向いてずらりと並びました。墨でまっ黒に塗った影法師《かげぼうし》ですから、太陽がいくら高く昇っても、太陽が沈んで晩になっても、ちょうど人がつっ立ってるように、そこに、白い塀《へい》の上に、つっ立っています。
それを見て、通りがかりの大人《おとな》たちは、「えらいことを始めたな」と言いながら、にこにこ笑っていました。長者のうちのお祖父《じい》さんも出て来て、大きなまんまるい眼鏡《めがね》の下に眼をまんまるくして、「ほほう」と感心したように眺め入りました。
「これが僕んですよ」
「これが僕んですよ」
子供たちはめいめいそう言って、自分の影法師の前に立ってみせました。背の高さから形まで、身体《からだ》どおりの影法師でした。
さて皆の影法師が写し取られて、塀いっぱいに並びますと、これからどうしようかと、子供たちは考えました。写し取っただけではいっこうつまりません。
「影法師が塀からぬけ出して踊ってくれるといいんだがなあ」
そう皆は考えました。そしていつも塀の前に集まっては、何度もくり返して考えました。しかしそんなことが出来るわけはありません。
ところが、ある日、皆がやはりそこに集まって、同じことをこそこそ話し合っていますと、いつのまにどこからやって来たか、髪の長い見馴《みな》れない男が、そばにつっ立って笑っています。
「君たちはばかなことを考えてるね」
そしてやはり、塀の影法師を見て笑っています。
子供たちはそれがしゃくにさわりました。髪の長い見馴《みな》れない変な男ですけれど、それもかまわずに、皆でつめよっていきました。
「何を言ってるんだい。何がばかなことなんだい。影法師《かげぼうし》を踊らせようとするのが、何がばかなことなんだい。おもしろいことじゃないか」
見馴れない男は、さも愉快《ゆかい》そうに、はっはっ……と笑いました。そして言いました。
「なるほど、私が悪かった。それはおもしろいことに違いない。……それでは一つ私が教えてやろうか。その影法師を踊らせることを、教えてやろうか」
「え、おじさんはそんなことを知ってるの。教えて下さい。ね、教えて下さい」
「じゃあ教えてやろう。そのかわり、私の影も一つ、そこに写し取ってくれなくてはいけない。そして、明日の朝早くここに来れば、君たちの影法師は踊れるようになってるだろう」
子供たちは大変喜びました。そして塀《へい》の片隅《かたすみ》の空《あ》いてるところに、見馴れぬ男の影法師を写し取りました。もう太陽が高く昇っていましたので、男の影法師は低くぴしゃんこになって、おかしな格好でした。
「だめだよ、日が高くなってるから……。おかしいな」
「いや、それで結構《けっこう》だ」
そして男は、自分の変な影法師を見て、はっはっは……。と笑いました。
「それでは、明日の朝早く皆でそろっておいでよ」
男はそう言いいすてて、どこかへ行ってしまいました。
三
子供たちはその晩、おちついて眠れませんでした。自分たちの墨絵《すみえ》の影法師《かげぼうし》が、塀《へい》からぬけ出して踊りはねるというんですから、待ちきれませんでした。翌朝は早くから眼をさまして、皆誘い合わせました。大人《おとな》たちが何かたずねても、今にびっくりさしてやるという気持ちで、まじめくさった顔をして黙っていました。
やがて皆そろいましたので、胸をどきどきさせながら、長者の屋敷《やしき》の東の白塀《しろべい》のところへやって行きました。
ところが、一目《ひとめ》見ると、皆はあっと口の中で叫んだまま、おどろいて立ち止まりました。皆のおもしろい影法師がいっぱい立ち並んでいた白塀は、一面に何かでまっ黒に塗られてしまって、そのまっ黒な色がまたひどく濃《こ》くて、いわば闇の鏡みたいになっているのです。影法師どころか何一つ見えないで、ただ一面にまっ黒なだけです。
「はっはっはっは……」
高い笑い声がしたので振り向くと、昨日の男がそこに立って笑っています。
「私のあのおかしな影がね、一晩のうちに大きくなって、塀いっぱいにひろがったのだ。とんだことになってしまった」
それを聞くと、子供たちは急に怒り出しました。その男がだまかしたのだ。嘘を言ってるんだ。影法師が一晩のうちに塀《へい》いっぱいに大きくなるなんて、そんなことがあるものか。その男が塀をまっ黒に塗りつぶして、皆の影法師《かげぼうし》をなくしてしまったのだ。
「嘘つき、嘘つき。僕たちをだまかしたんだな」
そう言って子供たちはつめよっていきました。
「はっはっはっ……」と男は平気でなお笑っています。
「人をばかにしてる。なぐっちまえ」
気の早い子供たちは、棒ぎれを拾ったり、石をつかんだり、げんこを握りしめたりして、男へ向かっていきました。男は笑いながら、あちこちへ身をかわしました。ひどくすばしこい影のような男で、大勢《おおぜい》でいくら追っかけても、つかまえることが出来ませんでした。
「君たちはばかだな」と男は広場の中を逃げ廻りながら言いました。「そら、まっ黒な塀の中で、影法師が踊ってるじゃないか」
そう言われてから皆は初めて気づきました。東から出た太陽の光を受けて、黒い鏡のように光っている塀の中に、皆の影法師が浮き出していました。白塀《しろべい》にうつったのとちがって、奥深いまっ暗な中にうつってるものですから、そうはっきりはしていませんが、すかして見ると、ちょうど生きた人間のように浮き出しています。それが、皆が動くにつれてあちこちへ動き廻って、大勢《おおぜい》の本当の子供たちが踊ってるようなんです。
「おや、これはおもしろいや。ふしぎだなあ」
皆は黒塀《くろべい》の鏡に影法師をうつして、ふしぎそうにのぞきこみました。眼や口や鼻までそっくり見えて、向こうにも同じ生きた子供たちがいるようなんです。
「わかったかね、はっはっは……」
皆が振り返ってみると、髪の長い見馴《みな》れぬ男は、なお笑いながら立ち去って行きました。引き止めるまも何もなく、まるで宙を飛ぶようにして、山の方へ見えなくなってしまいました。子供たちはあっけにとられました。
そこへ、長者のうちのお祖父《じい》さんが出て来ました。子供たちは昨日からの話をしました。お祖父さんはびっくりしたように、まっ黒な塀《へい》を見ていましたが、しまいに言いました。
「それはきっと、大変えらい人にちがいない。お前達はよいことを教わったものだ」
子供たちはさっぱりわけがわかりませんでした。けれど黒塀《くろべい》の鏡が出来たのはうれしいことでした。朝日のさしてる時ばかりでなく、午後になっても、月が出てれば夜分《やぶん》でも、黒塀の鏡は皆の姿をうつし出してくれました。それもただの影法師《かげぼうし》ではなく、生きた人間と同じ姿なんです。
皆はいろんな姿をうつして、自分も踊り影の姿も踊らして、いつも大変愉快に元気に遊びました。
底本:「豊島与志雄童話集」海鳥社
1990(平成2)年11月27日第1刷発行
入力:kompass
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年4月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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