く天上的な恋に終るでありましょう。私の恋も、またあなた自身も、或る貪慾な男によって辱しめられました。二三日黙ってお待ち下さい、すべてが明らかになりますでしょう。
 それだけをいって、私は逃げ出したのだった。あの人は大凡のことを覚ったに違いない。然し必ずこれを持ちこたえてくれるに違いない。今となっては、あの人も私を愛してくれてることが明らかだ。愛は女の最強の支柱だ。
 もはや私に残された途はただ決行のみだ。その他の途は凡て塞がれている。
 それもよろしい。この土地に別れを告げることが、私の宿志ではなかったか。西湖を銭塘江岸へと展開させないところに杭州の頽廃があるとは、敵の口にまで上せられる私の持論だった。水浅く濁って、ただ水田の広いのに過ぎないこの西湖が、如何に三潭印月や湖心亭の影を宿そうとも、また、煙雨の中に模糊たる愁思を漂わそうとも、また、数々の名跡を周辺に鏤めようとも、畢竟は、湖底は寺院の香の灰に蔽われてるという巷説を、否定できるものではない。それは人を眠らせはしよう、人を憩わせはしよう。然し人を錬え生かすものとはならない。寺院と墓地と別荘と病院とが、更に更に殖えるもよかろう。私は別れを告げるのだ。
 それにしても、私の心のこの愁いは何故であろうか。あの初陽台に登ったのも、訣別の意を固めるためではなかったか。あの人にあすこで出逢って、固より前から知ってる人ではあったけれど、心の出会をしたのは、私の不覚であったのだろうか。いやそれとも、ただ一途あるのみの最後の関頭へ私を逐いつめるための宿命であったとすれば、私はそれを欣んで受け容れよう。それこそ勇気ある者の面子《めんつう》の問題だ。真の面子を重んずる者にとっては、没法子《めいふわーす》という言葉は存在しない筈だ。
 あの人は私の心の故里となるだろう。西湖は私の肉体の故里となるだろう。美しい故里を持つことを私の慰安としよう。前途に未知の荒波を持つことを私の勇気としよう。
 そうだ、ただ僅な策略と小舟と一挙手とそれから脱走あるのみ。他は天の知るところである。

 二日後のことでありました。西湖に主のない軽舟が漂っていて、その中に、背後から刃物で※[#「宛+りっとう」、第4水準2−3−26]られた張金田の死体が見出されました。その後、李景雲の失踪が伝えられました。町にはいろいろな噂がたち、警察にはいろいろな情報がはいりましたけれど、犯人の確実な手掛りは得られませんでした。張金田は市外の墓地に葬られましたが、李景雲の行方は全く分りませんでした。
 そして一ヶ月ばかり後のこと、西湖の西方の山地にある名刹霊隠寺の御堂に、端坐して祈念してる美しい中年の婦人がありました。彼女は涙の中の長い間の祈念の後に、そのまま静かに立去ってゆきました。そして其処に、象牙細工の精巧な画舫の小さなのを、人知れず置き残しました。その婦人は陳秀梅でありまして、象牙細工の画舫は李景雲を偲んだのでありました。
 その画舫にちなんで、かような伝説が綴られたのでありますが、李景雲の其の後のことは不明のままに致すより外はありません。



底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
   1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「帝大新聞」
   1941(昭和16)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月13日作成
2008年1月15日修正
青空文庫作成ファイル:
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