を周囲に感じることもありましたので、最後の項には心を刺され[#「刺され」は底本では「剌され」]ました。けれどもこういう事柄については、一家のうちに適当な相談相手も見付かりませんでしたし、財務に忠実な徐康とても、女の心情には思いやりの少い老人に過ぎませんでした。そして何よりも不安なのは、当の張金田自身が何のために右のような手紙を書いたのか、それが分らないことでありました。もう四十歳にもなって独身でいる彼、数人の妾がいるとかいう彼、仕事に曖昧な影の多い彼、どんなことを企らんでいるか分りませんでした。
 そしてこの三月になって、張金田は商用を兼ねて別荘にやって来ました。蘇州の絹布と麻布とのすばらしい刺繍[#「刺繍」は底本では「剌繍」]の土産物を、秀梅と瑞華とに持って来ました。これまでに嘗てないことでした。けれども、手紙の一件については、彼は一言も口に出しませんでした。秀梅の方もいい出しませんでした。そこにまた、いつどんなことになるか分らない不安がありました。
 李景雲はいつも、画舫好きな張金田に贔屓になっておりましたし、今日のように張金田が湖上でお茶の集りをするような時には、彼一人が呼ばれるのでしたから、彼にもし陳秀梅一家に味方してくれる心があるなら、張金田の真意もそれとなく監視し、なお今後とも力になってほしいというのでありました。
 そういうことを、知性のすぐれた景雲には納得出来るほどのいい廻しで簡単に、秀梅は話しました。そして溜息をつきました。
「女の気持が分るような人は、世の中にめったにありません。」
 黙って聞いていた景雲は、急に叫びました。
「私を信じて下さいますか。」
「信じますからこそ、こういう話をしました。」
「私は、何でも致します。あなたのためなら、どんなことでも致します。」
「誓って下さいますか。」
「誓います。」
 秀梅は右手を差出しました。景雲はちょっとためらった後で、そこに跪いて、彼女の手を執って胸に押し当てました。それから跪いたまま椅子に半身を投げかけて、しみじみと泣きました。
 秀梅はじっと宙に眼を据えていましたが、つと立上ってあたりを見廻しました。湖面はただどんよりと凪いで、湖心亭の小島の茂みが、もう長い影を引いていました。

 それから一ヶ月あまりたちました或る日のこと、町の料亭の奥室で、盛宴が催されていました。張金田を中心に十数名の人々で、午後の三時頃から夜まで引続きました。初めは経済や政治の話題も出ましたが、夜になるにつれて人数も減り、三十年配から四十年配の者四五人となり、それがみな張金田の親しい飲み仲間ばかりでしたから、酒の酔につれて話も猥雑になり、やがて芸妓が呼ばれるようになりますと、一座はすっかり乱れてきました。宴席のそうした調子は、それがただ偶然の集りであることを示すものでありました。実際、その日の午過ぎ、この料亭で結婚式が行われまして、それに列した張金田は、式後、奥の室に陣取りまして、知人をやたらにそこへ引張り込んだのでした。彼はなにかしら、心が苛立ってるとも浮立ってるとも見えるのでありました。
 室の床には、水瓜の種の皮や、向日葵の種の皮や、落花生の皮や、梅の実の種や、鶏の骨などが、あたりに散らばり、また誰かが結婚式の残りのものを持って来たと見えまして、五色の切紙やテープが散乱していました。夜の時間がたつにつれて、料理の皿は冷えてきましたが、老酒の銚子は熱くなりました。拳《けん》の勝負を争う者もあり、カルタを取寄せる者もあり、女に戯れる者もあり、口をあけてうっとりしてる者もありました。
 そういうところへ、張金田からの使の者に呼ばれて、李景雲がやって来ました。彼は、一座の人々の着飾った様子と、室の乱れと、芸妓たちとを見て、入口に佇みました。
「いよいよ御入来か。」と金田が叫びました。「遅かったぞ。二度も使を出したぞ。さあこっちへ来るんだ。君を待ち焦れてるひとがいるんだ。」
 彼は立上って来て、景雲の肩をつかんで室の奥に引張ってきました。
「どうなすったのですか。」と景雲はよろけながら尋ねました。
「どうもこうもない、今日は目出度い結婚式だ。」
「どなたの式ですか。」
「どなたもこなたもない。俺の…… 君の結婚式だ。そう、君と並んでみたいという者があるんだ。」
 金田は一人の年若い芸妓を彼の側に引立てました。それには景雲も見覚えがありました。※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]が少し尖った、身体の細そりとした、鶯妹というのでした。鶯妹はただ扱われるままになって、にこにこ笑い、おかっぱの前髪がゆらゆら揺れました。
「ははは、よく似合うぞ、そうしてるところを、あのひとに見せたいものだ。怒られるぞ、まあ一杯飲め。」
 景雲はちょっと顔を赤らめましたが、平然と幾杯も飲みほしました。
 ところで、こうした乱れた宴席では、言葉があちこちへ飛び、話題も飛躍するものでありまして、中心を捉えるのに困難でありますが、ただ、金田の酔った頭には、景雲のことがなにかひっかかってるようでありました。彼は景雲を一同に紹介するのに、これが例の画舫の哲学者だといいました。また或る所で景雲が述べたという説を披露しまして、その有名な言葉として、西湖を銭塘江岸へと展開させないところに杭州の頽廃がある、というのを伝えました。そこで、西湖の風光と銭塘江の風光との比較論がちょっと出ましたが、金田はもうけろりとして、景雲へ他のことを囁きました。陳家の信頼をあまり得すぎて、瑞華との結婚の話でも持出されたら、承諾する気があるかというのでした。
 景雲はすすめられるままに杯をあけながら、答えました。
「あのひとと結婚なさるのは、あなたではありませんか。」
 そしてすぐ彼は、ばかなことをいったと思って、自分の腿を強くつねって、その痛みに顔をしかめました。
 金田は声高く笑い出しました。
「君は可愛いことを考えるね。鶯妹に好かれるだけあるぞ。……おい鶯妹、この人は君と結婚したいんだそうだ。もう今夜は帰すなよ。」
 鶯妹はうなずき笑って、景雲の肩にもたれかかりました。そのゆらゆらした前髪に耳をなでられて、景雲はびっくりして立上りかけ、鶯妹は倒れそうになって飛び上りました。金田と他の妓たちがどっと笑いました。
 景雲はすぐ、ばかなことをしたと思って、自分の腿を強くつねって、その痛みに赤い顔をしかめました。そして酒を飲みました。
 他の一隅に、永遠に尽きない妻妾論が起っていまして、一体独身者は妾を欲するが故に独身でいるのか、或は妻を厭うが故に独身でいるのか、いずれが真実かという議論になりまして、その解決を金田の真意に問いかけてきました。それに対して、金田は他の答え方をしました。文化の高い民族ほど、女は年をとっても容姿が衰えないし、随って妾の必要は少くなるものだが、文化の低い民族ほど、女は年をとるにつれて早く老衰し、随って妾の必要が多くなるというのでした。それではこの国ではどうかということになりまして、この国では女は結婚するとすぐに婆さんになると、金田は断言しました。
「ただ、少数の例外はある。」と彼はいいました。「僕はその一人を知っているが、彼女はもう三十五六歳にもなるのに、水の滴るような容色をしている。それも、若い頃はさほど美人でもなかったが、年をとるにつれて美しくなってきた。全く異数の女だ。」
 人々は意味ありげに眼を見合せました。
「その上、財産もあるというのだろう。」と一人がいいました。
「うむ、財産もある。」
「君に誂え向きだね。」とまた一人がいいました。
「惜しい哉、彼女は既に一度結婚したことがあるのだ。」と金田は答えました。
「それでは、妾の組だな。」と誰かがいいました。
「目下考慮中というところだ。まず乾杯しよう。」
 一同は笑いながら乾杯をしました。
 その時、乾杯に加わりながら、景雲はぱっと杯を床に叩きつけて砕きました。金田はじっと彼の方に眼を据えました。彼は即座に、強く自分の腿をつねって、その痛みに顔をしかめました。それが、何かの挑戦となったのでありましょうか、金田の拳が飛んで来て、彼の横面を一撃しました。彼はその痛みをもじっと怺えました。
 金田の大きな顔が彼の眼の前に覗きだして、低く底力のある声でいいました。
「お前のような奴がいるから、俺はあのひとを保護してやらなければならないのだ。もうあの家へも出入を止めたがよかろう。」
 そしてまた拳の一撃が彼の横面へ飛んできました。
 彼は思わず立上ろうとしましたが、その時、金田の高い笑い声がしました。
「おい鶯妹、しっかりするんだぞ。この人は君から逃げ出そうとしてるぞ。首っ玉にかじりついて放すなよ。」
 鶯妹も、ほかの妓たちも、びっくりして眺めますと、景雲はこまかく震えながら歯をくいしばっておりました。
「ははは、もう喜劇は沢山だ。」と誰かがいいました。「これで乾杯といこう。」
 そして一同が乾杯をしています時に、李景雲は立上って室から出て行きました。
 ただ不思議なことには、右のようなことが起った時、そしてその前後とも、陳秀梅の名前が誰の口にも上らなかったのであります。

 その翌日の夜のことでありました。李景雲はただ一人、西湖の蘇堤を歩いていました。星辰清らかな夜で、月の姿は見えませんでしたが、湖面は仄かな明るみを湛えていました。景雲は多少の酒気を帯ているようでしたが、それよりも更に何か精神的な陶酔に陥っているらしく、足取りは弱々しいながら狂いがありませんでした。じっと眼を地面に伏せ、両手を胸に組んで、ゆっくりと歩きました。時々、頭を挙げて熱そうな頬を空に向け、星の光を仰いだり、胸の両手を伸ばして笛に打振ったりしましたが、またやがて専念の姿勢に戻るのでした。そして蘇堤の――端近くなると、くるりと向きを変えて引返し、他の一端近くなると、またくるりと向きを変えて引返しました。二キロに近いこの長い蘇堤の上を、こうして彼は幾度か往復しました。堤上の楊柳はしなやかな枝葉を張って、風もないのに、柳絮は時折彼の身に舞いおちました。
 彼は何を思い耽っていたのでありましょうか。それを言葉に直してみますならば――

 私の決心はもう定まっている。これ以外の決定はなし得ないところへまで、私は落ちこんでしまったのだ。いや、落ちこんだのではなく、自然に推移してしまったのだ。
 ただ一つの私の悔いは、今日の卑怯な振舞であった。然し自然にも策略があるとするならば、この卑怯な振舞も一つの策略として許されるであろう。
 昨日の夜、私は、数名の市人たちの面前で、そして数名の娼婦たちの面前で、即ち公衆のさなかで、辱しめを受けた。而もそれが私の恋人への侮辱によって、いや、私の恋愛への侮辱によって、為されたのである。
 私はその辱しめのなかから、頭を垂れて出て来たのだ。
 そして今日どうであったか。私は侮辱した当人の張金田を訪れて、その前に私は平身低頭して、詫言をいったのだ。心にもない嘘をいい、心の奥にあるものを口頭で否定して謝罪したのだ。陳秀梅さんに対する感恩のために、そして酒の酔のために、それが私の唯一の皮相な口実だったのだ。
 卑劣な嘘言にひっかかる者に、災あれ。彼自身卑劣の外の何者でもないのだ。張金田は私の策略に陥って、更に私の献身や助力を求めようとした。私は誓った。おう、恥しくも誓った。真の誓いは真心の上にのみ打立てられることを知らない者に、災あれ。
 張金田から誓いを求められたことによって、私は漸く自分の力を知った。ああこれを知ることの、も少し早かったならば……。
 然しそれは、遅きに過ぎはしなかった。私は自分の力を知るに及んで、同時に、自分の恋の深さをも知ったのだ。
 私は陳秀梅さんの前に跪いて、いつかの画舫の中でのように跪いて、告白したのだ、私はあの初陽台の時から、あなたを恋しておりましたと。
 その時のあの人の蒼ざめた神々しい顔は、私の眼の中にはっきりと残っている。永久に残るであろう。だが私は、瞬間、それに堪えきれなかった。
 私はあなたを恋しております。けれど、これは恐ら
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