じます。お待ちしておりますから、お出で下さいませんでしょうか。」
「有難うございます。御用の時には伺わせて頂きます。」
 どうとも取れるその言葉を残して、若者は丁寧にお辞儀をして、すたすたと歩み去って行ったのでありました。
 秀梅はそっと家へ戻りました。女中の※[#「槿のつくり」、86−下−11]香だけが、彼女の左手の擦り傷は戸外でなされたことを知りました。
 秀梅は若者の来訪を待ちました。然し若者は訪れて来ませんでした。その若者が画舫の李景雲だったのであります。

 ひたひたと、物静かな水音をたてながら、画舫は湖心の方へ出てゆきました。
 やがて、陳秀梅は急に気付いたかのように、李景雲に漕ぐのを止めさして、席近くに招きました。彼女の顔には、おっとりとしたやさしい笑みが浮んでいました。
「あの翌日、なぜ来ませんでしたか。待っていましたよ。」
 景雲は顔を赤らめて、つっ立っていましたが、ようやく答えました。
「御用のある時に伺うつもりでございました。」
「そう……たしか、あの時も、そういうことをいいましたね。まあ、そこへお坐りなさい。」
 景雲はもじもじしていましたが、うつ向けた眼に、秀梅の小さな足先が見えますと、それを避けるように、すぐ席に腰をおろしました。
「あんたのことは、徐康からいろいろ聞いて知っています。徐康はお父さんと懇意だったそうですね。お父さんが亡くなってからも、時々徐康に逢いますか。」
「いいえ、めったに逢いません。」
「いま一人きりだそうですね。」
「はい。」
「淋しいでしょうね。」
 景雲は頭を振って、初めて落着いた青年らしい微笑をしました。
「初陽台なんかへ、時々登るのですか。」
「いいえ、登りません。」
「では、元旦の朝、どうして登ったのですか。」
 景雲は急に、淋しそうな眼付をしました。そしてちらと秀梅の顔を見てから、答えました。
「私はあの時、いろいろなことを考えあぐんでおりました。その思想上の悩みのために、日の出を見たい気持になりましたのです。」
「そう、考えあぐんだから、日の出を……。」
 秀梅はやさしい眼を見張って、怪訝そうに首を傾けました。景雲はふいにいいました。
「それでは、奥様は、どうしてあのような所へお登りなさいましたのでしょうか。」
「わたしはね、いろいろ考えなければならないことがありました。それを、ちっとも考えないように
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