を周囲に感じることもありましたので、最後の項には心を刺され[#「刺され」は底本では「剌され」]ました。けれどもこういう事柄については、一家のうちに適当な相談相手も見付かりませんでしたし、財務に忠実な徐康とても、女の心情には思いやりの少い老人に過ぎませんでした。そして何よりも不安なのは、当の張金田自身が何のために右のような手紙を書いたのか、それが分らないことでありました。もう四十歳にもなって独身でいる彼、数人の妾がいるとかいう彼、仕事に曖昧な影の多い彼、どんなことを企らんでいるか分りませんでした。
そしてこの三月になって、張金田は商用を兼ねて別荘にやって来ました。蘇州の絹布と麻布とのすばらしい刺繍[#「刺繍」は底本では「剌繍」]の土産物を、秀梅と瑞華とに持って来ました。これまでに嘗てないことでした。けれども、手紙の一件については、彼は一言も口に出しませんでした。秀梅の方もいい出しませんでした。そこにまた、いつどんなことになるか分らない不安がありました。
李景雲はいつも、画舫好きな張金田に贔屓になっておりましたし、今日のように張金田が湖上でお茶の集りをするような時には、彼一人が呼ばれるのでしたから、彼にもし陳秀梅一家に味方してくれる心があるなら、張金田の真意もそれとなく監視し、なお今後とも力になってほしいというのでありました。
そういうことを、知性のすぐれた景雲には納得出来るほどのいい廻しで簡単に、秀梅は話しました。そして溜息をつきました。
「女の気持が分るような人は、世の中にめったにありません。」
黙って聞いていた景雲は、急に叫びました。
「私を信じて下さいますか。」
「信じますからこそ、こういう話をしました。」
「私は、何でも致します。あなたのためなら、どんなことでも致します。」
「誓って下さいますか。」
「誓います。」
秀梅は右手を差出しました。景雲はちょっとためらった後で、そこに跪いて、彼女の手を執って胸に押し当てました。それから跪いたまま椅子に半身を投げかけて、しみじみと泣きました。
秀梅はじっと宙に眼を据えていましたが、つと立上ってあたりを見廻しました。湖面はただどんよりと凪いで、湖心亭の小島の茂みが、もう長い影を引いていました。
それから一ヶ月あまりたちました或る日のこと、町の料亭の奥室で、盛宴が催されていました。張金田を中心に十数名の人々
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