ったのだ。――嘉代さんが、白痴の姪をふびんがって、いたわってやる気持は、分らないことはない。だが、千代はいったい何と思ってるのだろう。おれに殴られたことをなぜ言わないのか。自分の方が悪かったなどと、そんな分別のつく彼女ではない。或は、彼女はおれのことなど完全に無視してるのかも知れない。
 おれのことばかりではない、彼女自身のことも、彼女は無視してるようだ。――嘉代さんの時折の言葉を綜合してみると、千代の正体が次第にはっきりしてくる。
 いつも千代は、嘉代さんと一緒にお風呂に行く。そんな時、嘉代さんは千代をなるべく早く歩かせる。そろりそろりと、下駄をひきずって、重病人のように歩く、その歩調に嘉代さんが従わないで、自分の歩調に千代を従わせようとするのだ。普通の人のように歩く癖をつけてやろうと、訓練するためなのであろうか。
 或る時、千代は嘉代さんに後れないよう、相並んで、街路を横ぎりかけた。とたんに、一台のトラックが疾駆してきた。嘉代さんは立ち止ったが、千代は二三歩先に出た。手をつないで歩いてたわけではないのだ。嘉代さんは息をつめて、千代の袖を捉えた。瞬間、トラックは鼻先をかすめて過ぎた。
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