には、赤木が嘉代さんに注意することもある。赤木は殆んど千代にじかに言葉をかけない。ただ睥みつけるだけだ。
 近所の下品な酔客が、時とすると、千代をからかう。
「千代ちゃん、いつ結婚するんだい。」
「知りません。」と千代は答える。
「いい旦那さんがすぐそばにいるじゃないか。」
「知りません。」と千代は答える。
 千代は実際、そんなことには関心がないらしい。彼女の相手は、火鉢の炭火や、畑の野菜や、焼け跡の草原や、忍び込んでくる野良猫ばかりのようだ。然し、隅っこで下洗いをしているおれには、酔客の冗談がおれを種にしてることがよく分る。ふだんは苦笑するだけだが、虫の居所が悪いと、おれはむかついてくる。その男の頭に、また千代の顔に、皿や小鉢を打っつけてやりたくなることもある。
 千代がいなかったら、どんなにここは明るくなることだろう。そういう思いがおれの胸の中に巣くっていた。そのことが、やがて、世の中にも通ずる。千代がいなかったら、どんなに世の中は明るくなることだろう。――それを、おれは肯定する。陰惨な戦争は済んだ。おれ達の世界は立て直しだ。平和国家だの、民主主義だの、無血革命だの、そんなことはおれには縁遠いものに思われた。それよりも、おれの生活、つまりおれの世界を、自由な境地に繰り拡げることだ。それには、そういう自由には正義とか不正義とかいうことよりも、美とか醜とかいうことが問題だ。美は心を自由に開いてくれる。醜は心を不自由に閉す。醜悪はおれの世界から絶滅しなければならない。そして千代はいろいろな意味で、醜悪の一つの代表なのだ。
 そういうわけで、おれは千代の病院入りに賛成した。
 そのことを、赤木がひそかにおれに相談したのだ。――二階の室を使う特別客の仲間の一人に、古賀さんという中年の男がいて、その知人に脳病院の医者がある。千代の様子を話してみたところが、その軽度のものなら、全快はしないまでも、いくらかよくなるかも知れないから、二三ヶ月預ってみてもよいとのこと。
「どうだろう。」と赤木は探るようにおれの顔を見た。
 どの点から考えても、おれは賛成だ。
 ところが、赤木は、おれと二人きりなのに声をひそめた。
「問題は嘉代だよ。あれは、千代を自分の娘のように可愛がっておる。なかなか手離したがるまい。それに入院費のこともぐずぐず言うだろう。然しだね、ただ可愛いいとか、入院費とかの
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