娠へと、噂の移り方が時間的に早すぎはしたけれど、そのようなことに留意するのは、単なる交際上では無理だったろうし、第一、両者が同時に起ることだってあり得るのである。
美枝子の腹部は少しもふくらんでこなかった。ただ、秋気が深まるにつれて、彼女はいくらか肥ってきたようだった。そして、煙草をもてあそぶことが多くなった。それも、もともと煙草好きというのではなかったし、時折、口先でふかすだけである。
「わたくし、なんだか肥ってきたようで、いやですわ。」と彼女は言った。
「却って、結構ではございませんの。どちらかと言えば、痩せていらっしゃる方ですもの。」
「それはそうですけれど、もしも、ぶくぶく肥ってきたら……と思いますと、いやになりますの。この年では、まだ、可哀そうでしょう。」
「いいえ、お気になさるほど肥ってはいらっしゃいませんよ。そんなこと仰言ると、わたくしなんか、あてつけみたいに聞えましてよ。」
「だって、わたくし、独り身ですもの。痩せてる方がよろしいわ。だから、こうして、煙草を吸うことにしていますの。煙草を吸ってると、肥らないそうですから。」
彼女は晴れやかに笑った。
そのようなこと、全く、彼女の腹部とは関係がなさそうだった。その腹部がいつまでもふくらんでこないので、知人たちは少し期待外れがした。
知人たちといっても、三十五歳にもなる彼女の交際だから、男性が相当に多かった。そして男の側には、彼女に関するひそかな噂は、女の側によりも、一層悪い印象を与えた。
「あのひとが愛人を拵えようとどうしようと、それは俺たちの知ったことじゃない。」
それが最初の意見だった。美枝子は美しかったし、未亡人だったし、無関心に見過せる相手ではなかったが、然し、ただ愛人が出来たというだけで、それが何処の誰だか分らない間は、ただ一種の色気を彼女に添えるに止った。相手がはっきり分れば、おのずから事情は異ってきたろう。
ところが、噂が一転して姙娠となると、それはもう一種の嫌悪の情を伴ってくる。色気どころか、穢らしいものとなる。そしてこうなると、男は無慈悲なものだ。彼女の腹部がふくれてこないことにも、皮肉な解釈が加えられたのである。
「全くのところ、女というものには油断がならない。秘密に愛人をこさえ、秘密に姙娠し、秘密に事を処理する……つまり、一切のことを秘密に運ぶ能力を、女は持ってるのだ。
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