化生のもの
豊島与志雄
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(例)小説5[#「5」はローマ数字、1−13−25]
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小泉美枝子は、容姿うるわしく、挙措しとやかで、そして才気もあり、多くの人から好感を持たれた。海軍大佐だった良人を戦争で失い、其後、再婚の話も幾つかあったが、それには耳をかさず、未亡人生活を立て通していた。書生が一人、奥働きの女中が一人、下働きの女中が一人、それだけの家庭で、なお遠縁に当る中学生を一人預っている。近所の評判もよかった。
ところが、近頃、知人たちの間に、ひそひそと交わされる噂が拡まっていった。美枝子に愛人があるらしいというのである。
「まあ、あのひとに。」
「そうなんですよ。」
「ほんとうかしら。」
「どうやら、ほんとうらしいんですの。でも、相手の男のひとが誰だか、さっぱり分らないそうですから、それがすこし、おかしいんですって。」
美枝子の交際範囲の男たちを物色してみても、一向に見当はつかなかったし、噂の出所も不明だった。そうなってくると、噂そのものの真偽も疑われた。
そのうちに、噂は別な形を取っていった。美枝子が姙娠してるらしいというのである。
「まあ、だんだん具体的になりますのね。」
「そうですよ。けれど、相手の男のひとが誰だか、やっぱり分らないそうですの。」
「ほほほ、聖母マリアみたい……。もっとも、あのひとは処女ではない筈ですけれど。」
「いまに、キリストさまがお産れなすったら、たいへんなことになりましょうね。」
「さあ、どうでしょうか。産れる前に、処置しておしまいなさるかも知れませんし。」
「そのようなこと、簡単に出来るものでしょうかしら。」
「いずれは、入院とか旅行とか、そんなことでございましょうね。」
然し、美枝子の日常は聊かの変りもなかった。入院も旅行もなく、面やつれさえも見えず、芝居や映画やお茶の集りなど、平素の通りの社交ぶりだった。知人たちの好奇な眼を腹部に受けても、全く気にかけていないようだった。親しい友だちの間でも、噂がただ愛人のことに止まってるうちはまだしも、姙娠ということになってくると、さすがに、未亡人たる彼女に面と向って言い出すのは憚られた。但し愛人から姙
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