た。
彼女の眼が光っていた。彼は薄明りにその意味をよむことが出来なかった。それでそっと妻の肩に手を置いて、こう云った。
「叔父さんは?」
「おやすみなすったでしょう。」
肩に置いた手にその低い声が震えるように感ぜられた。彼は今一度妻の顔を凝視した。
「叔父さんは何とも仰言らなかったのかい。」
「いいえ。」そして彼女は一寸息を休めた。「ただ、すっかり以前と様子が変ったねってそう仰言って、私の顔をじいっと見つめていらしったの。私はそれから何か仰言るのかと思って黙っていましたら、何時までたっても何とも仰言らないのですもの。それで顔を上げると、叔父さんは窓越しに外の方を見ていらっしたの。だから私、おやすみなさいませと云って出て来ました。でも……私何だか妙な気がしましたの。」
「それっきり?」
「ええ。」
悲愴《パセティック》な震動が彼の心に伝わった。意味の分らないヴェールがふわりと下りて来て、その中に自分というものが朧ろ朧ろになってゆくような気がした。そして何か別の透徹したものが彼の頭に入って来た。
「お前は臆病だね。」
「え?」と彼女は顔を上げて彼の眼を見守った。
「そんな時にはそっと額にキスしてあげるものだよ。」
「いやですよ、いやですよ!」
彼は靠《もた》れかかってくる妻を両手のうちに強く抱きしめた。それでいい、それでいい、と彼は心の中でくり返した。よし過去に於てたえ[#「たえ」に傍点]子が叔父を愛したと仮定し、そして今告別のキスを与えたとするならば、彼は尚一層悲痛に彼女を愛するであろう。然しそれは長く彼の心にある陰影を投じないであろうか? それでいい! と彼はも一度心に叫んだ。
「嫂《ねえ》さん! 嫂さん。」と向うの室で葉子の呼ぶ声がした。
「行っておいでよ。」と彼は妻の身体を押しのけるようにした。
彼女は夫の顔を今一度仰ぎ見て、それから黙って去った。
一人になると、彼は今したことをじっと見守っていたも一つの自分というものが返って来たような気がした。それで室から紙巻煙草を取って来てそれに火をつけ乍ら、庭に下りた。
午後に曇った空はまた何時の間にか美しく晴れ渡っていた。月の無い暗い空に星が燦然と輝いて、久遠の進路《コオス》を大なる弧を画きつつ辿っていた。地上の深い静寂の上に今天体の悠久なる律動が力一杯に徐々と押し移っているのである。彼は空を仰ぎ、そしてま
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