加減に懐手をし乍らゆっくりと歩いている。葉子が何やら時々くすくすと笑っているらしい。彼はその影の無い痩せた姿を痛ましそうに見守っていた。
「あら兄さんが!」そう云った妹の声に彼は駭然とした。同時に叔父が黙って彼の方を見上げた。彼はしいて顔面の筋肉を弛《ゆる》めてこう云った。
「お眠りになれませんでしたか。」
「ああ何だかね……でも昼寝より歩いている方がいいようだ。」
「こちらへいらっしゃいませんか。」
「そう、君の書斎を拝見しようかね。」
「あたしも行ってよくって?」とその時葉子が大きい声をした。
「そうね、まあお前は来ない方がいいようだね。」
「意地わる根性!」と葉子は睨むような眼附をした。「いいわ、嫂《ねえ》さんに云いつけるから。」
間もなく叔父はその高い姿を彼の書斎に現わした。彼は室の中に椅子を据えて其処に招《しょう》じた。何処か心の底に堅くなったもののあるのを自らにもおし隠すようにして。
「此の頃は何か研究でもやってるのか。」と叔父が云った。
「研究という程のこともないんですが、少しずつ書物を読んでいます。」
叔父は書棚にぎっしりつまった洋書や和書を見廻わして、それから壁に懸っている二三の額縁《がくぶち》を見守った。その一つにダヴィンチの「最後の晩餐」の大きな模写があった。彼の好みで塗らせた草色の壁の反射のうちに、キリストの胸のあたりが仄かな紫の色を帯びて光っていた。
「君は聖書を読んだことがあるだろう。」と突然叔父は尋ねた。
「ええ、ずっと前に。」
「どうだった?」
「どうって、そうですね、旧約の或る部分や約翰《ヨハネ》伝などには大部面白い所があったように記憶しています。叔父さんはあんなものをお読みになるんですか。」
「僕の知人に熱心な信者が居てね、是非読んでみろって勧めるから、少しばかり見たんだが、さっぱり面白くないね。」
「ええそれはそうでしょう。」
「何が?」
「いえ、叔父さんには植物の研究の方が面白いでしょうと思って……。」
「面白いね。」
それから叔父は種々な地衣科植物についてその微妙な作用を話して聞かせた。西嵯峨野に近来妙な苔が発生して、其処には凡ての雑草が枯れつくして、只|車前草《おんばこ》ばかりが繁茂する、そしてその苔は車前草の下葉を地面に吸い附けて、地面と葉との間の狭い空間に生息する。その葉が枯れると又新らしい葉を吸い附けるんだそう
前へ
次へ
全15ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング