恩人
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)淡々《あわあわ》しい

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大分|浸潤《しんじゅん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]まる
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 年毎に彼の身体に悪影響を伝える初春の季節が過ぎ去った後、彼はまた静かなる書斎の生活をはじめた、去ってゆく時の足跡をじっと見守っているような心地をし乍ら。木蓮の花が散って、燕が飛び廻るのを見守っては、只悠久なるものの影をのみ追った。然しその影の淡々《あわあわ》しいのを彼の心が見た。
 前日からの風が夜のうちに止んで、朗らかな朝日の影が次第に移っていった。その時女中が一封の信書を彼の書斎に届けた。裏を返すと彼の心は一瞬の間緊縮された。手紙は京都の若い叔父からであった。彼は暫く眼を空間に定めて、それから封を切ってみた。断片的な簡短なる文句が続いている。
[#ここから2字下げ]
一度御地の旧物を訪わんと存候えど、閑暇――閑暇はあり乍ら心臆して未だその期を得ざるままに日を暮し候。その後出京の念漸く成りて本夕出発、明日は多分御面接を得ることと存候。御新棲の有様も伺いたくと存候えば……。
[#ここで字下げ終わり]
それから又こんな文句もあった。
[#ここから2字下げ]
但し此度は微行《びこう》に候、微行とは誇言なれど、此度の出京は君等の外誰も知る者なしとの意に候。然しそは特別の用件あるが故には候わず。ただ一泊の訪問なるを予め御報申さんが為に候……。
[#ここで字下げ終わり]
 其処を彼はくり返して読んでみた。そして手紙はこう結んであった。
[#ここから2字下げ]
突然のことにて御喫驚も有之らんかなれどそれも面白かる可しと存候。此の手紙は今日午前投函する筈なれば、小生の到着前に御手に届くことと存候。自身は今夕夜行にて出発する筈に候。但し本日の夕陽に明日の快晴を思わするものあらばとの条件を附加し候、さらば。
[#ここで字下げ終わり]
 彼の心に不可解なものが醸《かも》された。それで幾度もくり返し読んでは、叔父の本意を探らんとした。然し彼の眼に留ったものは以上の文句に過ぎなかった。彼
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