まみれの焼芋を盛りこんだ。芋は鉢にはいりきれなかった。
子供がすぐ駈けだしていった。
山口はそこに屈みこんだまま、灰のなかを掻き廻しながら、言いだした。
「あなたに、ゆっくりお逢いしたいと思っていました。」
千枝子はちらと眼を挙げて、また眼を伏せた。
「いろいろなことを、お話しして……。」
そこで、彼は閊えた。心の思いと言葉とが一致しなかった。ばかりでなく、突然、新たな想念がはいりこんできた。彼はこれまで、彼女を恋してると自分できめていた。恋している、それだけで充分だった。ところが、いま突然、結婚という想念が浮んできたのである。不思議なことに、三十五歳の現在まで、彼は幾度か縁談にも接したし、結婚を考えさせられる女性との交際もあったが、此度ばかりは、結婚などということを全然頭に浮べなかった。そういう想念を拒む何かが、彼女のうちにあったのであろうか、彼のうちにあったのであろうか、それとも終戦後の社会情勢のうちにあったのであろうか。それはすべてに於てそうだ、と彼は漠然と咄嗟に感じた、然しそれは恋愛を妨げるものではなかった。
「私のことも、いろいろお話ししたいし、あなたのこともいろいろお聞きしたいし、とにかく、あなたの身の上のことを聞かして下さいませんでしょうか。」
彼女は立ち上った。その額や頬から血の気が引いて、緊張した皮膚が透明なまでに冴えた。そして刺す[#「刺す」は底本では「剌す」]ような眼眸で、じっと彼を見下した。それに彼は対抗出来ず、すぐに眼を伏せて、灰の中をやけに掻き廻した。ひどい失策をしたように感じた。
子供が笊をさげて走って来た。
千枝子と子供は、残りの芋を笊の中に入れた。そして、彼女は青磁の鉢を持ち、子供は笊を持った。
「わたくし、そのようなことは一切、お話しできません。」と彼女は言った。
それは先刻の言葉に対する返事だと、山口にも分った、そしてその返事を、彼は独り藁灰のそばで噛みしめた。灰の中には、まだ二つ三つの小さな芋が残っていた。彼はそれを拾いあげたが、すぐに投げ捨てた。
すると局面が変ったのを、彼は感じた。彼は彼女の姿を思い浮べた。お召の着物や刺繍[#「刺繍」は底本では「剌繍」]の帯に、汚れた芋俵を抱えていた彼女、青磁の鉢に、灰まみれの焼芋を盛った彼女、その無頓着なやり方が、ただ愛すべき子供っぽさに思われた。山口自身の家庭では、両親の厳格な監督のもとに、そういう無頓着さは許されなかったのである。それと対照して、彼女のやり方は全く愛すべき子供っぽさだと、彼には思われた。ひいては、彼女のあの返事も、決定的なものではなくて、なにか子供っぽい愛すべきものではなかったであろうか。
彼は自分の話し方が拙劣だったのを認めた。そしてこの自分の失策を認めることが、今は却って幸福だった。単に話し方がいけなかったのである。恋にふさわしい清らかな身の持ち方をしていることなど、そういうことを先ず語るべきであろう。
彼は上衣の胸ポケットのハンカチで、決して使わないつもりだったハンカチで、汚れた手を丁寧に拭き、そのハンカチをズボンのポケットにつっこんで、しっかり立ち直った。そしてなお暫くその辺を歩いてから、座敷の方へ戻っていった。
斜陽は赤みを帯び、物蔭は暗かった。
来客はもう帰りかけていた。波多野未亡人は忙しそうに往き来していた。
そういうことをも、やはり意に介しないかのように、井野氏はまだ碁に耽っていた。山口はその側に坐りこんで、ビールを井野氏についでやり、自分も飲んだ。まだ居残ってもよい気がしたし、彼女にもなお逢いたかったし、どうせ辞去するにしても、誰か有名な人と一緒になりたかった。帰りぎわが大切だと彼は考えた。
然し彼の方を顧る人はいなかった。彼はそこに、碁客のそばに、置きざりにされた形になった。
近く、広縁のところで、話し声がした。「落葉樹の森」という言葉が山口の注意を惹いた。声には覚えがあった。
「前半はたいへん面白く思いましたが、後半が少し退屈でした。」
「ええ、小説にしては、少し思想的すぎると、先生も御自身で仰言っていましたわ。」
「あの思想には、僕も賛成です。ただちょっと、拗ねてるような、へんなところがありますね。」
「私にはよく分りませんけれど……。」
「前から、お逢いしたいと思っていました。こんど、ついでの時に誘って下さい。」
「ええ、先生の御都合を伺ってみますわ。」
「気むずかしい人ではありますまいね。」
「いいえ、決してそんな……。」
そして笑い声がした。
どうも吉村氏のことらしいと、山口は思った。そして立っていった。佐竹と千枝子が、立ち話をしていた。彼女は先程の身扮の上に小紋錦紗の羽織をひっかけていて、なにか老けたように見えた。山口から顔をそむけた。
山口は快活そうに言った。
「吉村さんのお話のようですね。」
「そうです。」
佐竹は怪訝そうに山口を眺めた。
「吉村さんなら、僕はよく知っていますよ。御一緒に訪ねてみましょうか。」
それが、なにか大きな衝動を与えたらしかった。千枝子は向うをむいたまま、振り向きもしないで、そこから出て行ってしまった。佐竹は眉をしかめたが、それを押し殺すように煙草に火をつけた。
「佐竹君。」
声がして、あの燐酸の先生がのぞいた。
「君は残っておれよ。君がいないと、どうも話が面白くない。」
そして彼は高声に笑った。
佐竹は黙って山口の側を離れ、広間の方へ行った。
山口はそこに取り残されて、唇をかんだ。何か体面にでも関するような失策をしでかしたようだった。而もそれが明瞭に分らないので、なお失策が大きく感ぜられた。ただ他日を期して……そう思った。そしてこの他日に倚りかかった。と同時に、彼はひどく冷淡になった。すべてのことに冷淡になった。波多野未亡人に礼を言い、人々に挨拶をし、玄関で外套を着せてくれたお花さんに会釈をし、鹿革の手套を片手に掴んで歩きだすまで、すべてのことを冷淡にそして冷静に紳士らしくやってのけた。
ところが、波多野邸の門から一歩ふみだした時、彼は全身の力がぬけたような状態になった。何かの重圧から遁れると共に、自身もくずおれてしまう、そういう状態だった。
彼は足を止めた。殆んど無意識に振り返った。山茶花の粗らな枝葉からすかして見える玄関前に、人影があって真白なものを撒布していた。人影はすぐ扉に隠れたが、千枝子らしかった。彼は忍び足でそこへ立ち戻った。扉の前のコンクリートから地面へかけて、真白なものが点々としていた。彼はその一塊を拾い、口になめてみた。
しおばな……と彼は呟いたが、それと知ると同時にもうそれにも無反応になった。そして何かえたいの知れない沈思に陥って、ただ機械的に足を運び、そこを去った。
底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「世界」
1946(昭和21)年2月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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