、今や自信が持てた。
手の爪ももうみがきあげられた。
背広服は少し古いが、純毛のもので、丹念にブラシがかけられていた。腕時計の腕輪は、革では汗や埃がしみるので、クロームの鎖に代えられていた。上衣の腕ポケットにわざと無雑作らしくつきこんだハンカチは、縁に空色の縫い取りがしてあった。少し洗いざらしで地質が損じてるのは残念だったが、綺麗でさえあればよく、実際に使用することはないものだった。それから鹿革の手套は今では自慢だった。他の如何なる布地のものも革のものも、彼に言わすればそれはただ手の袋であって、手套という文字にふさわしいのは鹿革あるのみだった。其他にはあまり自慢になるものはなかったが、その代り、全くと言ってよいくらい目立たぬほどに、香水を身にふりかけた。ただ悲しいことに、それが如何なる花のエキスだか彼自ら知らなかった。
特におめかしをした所以は、その日、波多野邸でゆっくり彼女に逢える筈だったからである。逢ってそして、彼女に意中を打ち明けるつもりだったからである。
その日の、波多野邸に於ける集りは、なにか変な工合だった。
もともと、故人波多野氏を偲ぶ夕として、その知友たちが、世話役側の知慧で、日取りを、故人の命日から未亡人の誕生日と変えたので、一種の社交的な意味合を帯びて、誰でも参集出来た。故人が多彩な政治家だったために、各方面の有力者がはいっていて、談話にも生気があった。然しこの三四年、戦争やなにかのために、その人数は次第に少くなり、前年からは、食料や交通の関係上、午後のお茶の集りということになり、時間も自由だった。
その昔[#「 その昔」は底本では「その昔」]故人からたいへん世話になったという豪商の野崎氏が、物資の方の面倒をみ、昔から波多野邸の台所をきりまわしてるお花さんが、万事を取り計らった。
広間のなかに、幾つかの大卓が置き合せられて、真白な卓布に覆われていた。その真中に、蘇鉄の鉢植えが一つ置かれていたが、これがたいへんよかった。青い鉢、苔むした土、大小五本の茎から出てる雄壮な葉など、見る眼に楽しかった。それをかこんで、いろいろなものが並んでいた。ビスケット、ホットケーキ、紅茶皿、干柿、鰺の乾物、塩ゆでの車鰕、こまかく裂いた※[#「魚+昜」、146−下−16]、南京豆、ビール瓶、コップ、茄子と瓜の味噌漬、林檎と蜜柑、小皿類……。
中央の鉢植えの蘇鉄が、一座を幾つかに仕切った恰好だったので、誰もすべての人々の眼に曝される危険がなかった。そして、自由に飲食が出来たばかりでなく、各所に自由な話題を展開することが出来た。――或る将軍は、東京が空襲下にあった時のことを追想し、地方に逃避した人々のことを偲び、戦場生き残りという感懐を語った。――或る伯爵は、干柿の味をほめ、各地の名産物についての知識を披瀝した。――或る官吏は、ダンスを論じて、欧米のサロンに於けるダンスは自然に自由に座席を転じ得る社交方法だと説いた。――或る政治家は、新たに参政権を与えられる婦人の投票が、保守的な方面に多く集るだろうと予測した。
そういうところへ、半白の髪を短く刈った肥満した人がはいって来た。その人は上席の方について、真先にビールの杯を取り上げた。
「ぶらぶら歩いて来て遅くなりましたが、焼け跡も楽しいものですな。」
その声は大きく、一座のすべての人に話しかけるような調子だった。そして彼は、焼け跡の畑について語った。麦のこと、大根のこと、菜つ葉のことを語った。
「然し、収穫は乏しいでしょう。大根の根は筋ばって細いし、麦の穂も大して実りますまい。肥料が平衡を得ていませんからね。加里と窒素が多すぎて、燐酸分が足りないですよ。」
すると、末席の方から、佐竹という若い人が言った。
「そうです。すべてに燐酸が足りません。」
「なるほど、すべてに燐酸が足りないかな。」
肥満した人は笑い、佐竹は顔を赤めていた。
それだけのことが、奇妙に一座の空気をはっきり照らしだした。実は、それまで、ごく普通の話題ばかりであり、ごく普通の意見ばかりにすぎなかったが、そのごく普通のことが蘇鉄の葉蔭で話されてることに、なにか普通ならぬものがあった。十二月九日のことで、昨年までは開戦記念日の翌日だったのが、今では日本が偉大な錯誤にふみこんだ記憶すべき日の翌日、連合軍司令部の記述した「太平洋戦史」が新聞紙上に発表され初めた日の翌日、そのことも、ここには少しも反映していなかった。然し反映していないそのことが、なにか普通でなかった。それが今、はっきりしてきたのである。謂わば、卑怯らしいもの、卑屈らしいものが、あったのであろうか。
思い出されたように、ビールが盛んに飲まれた。
波多野未亡人が時々出て来て、来客たちに愛敬をふりまいた。その態度のなかに一種の気位と羞みとがこもっていて、彼女はいつもより若々しく見えた。末席に控えていた山口専次郎は、彼女の肉附の豊かな柔かさに眼をとめた。と同時に彼は、魚住千枝子の皮膚の緊張した薄さを思い浮べた。が千枝子自身はそこに姿を見せなかった。未亡人も別室に女客達があって、そちらへ行くことが多かった。
「日本のビールは世界的なものですな。アメリカの兵隊も、これだけは讃美していますね。」
そういうことから、戦争犯罪のことに及んでいって、猪首の人が、犯罪人としての通告を受けた人々について話をした。或る者は泰然自若として、顔色一つ変えなかった。或る者は蒼白になって、来客の前にも拘らず手の煙草を取り落した。或る者は渋柿をなめたようなしかめ顔をした。或る者は……。
それらの話は、まるででたらめのようでありながら、その本人を識ってる人々にとっては躍如たる面目を伝えるような点があって、一座の注意を惹いた。ところが、個人的なその事柄に注意を集めたためか、戦争犯罪自体の問題は白々しいものとなり、その白々しいなかで、あなたは誰かと互に尋ね合っているような雰囲気を拵えた。これにも鉢植えの蘇鉄が役立った。蘇鉄の葉蔭で、知人同士、あなたは誰かと尋ねあった。
「ばかばかしいことですよ。責任のないところに犯罪はない。而もその責任がどこにも見付からない状態でしたからね。」
そういう議論になった時、山口専次郎は言葉を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]んだ。
「犯罪のことは、つまりは、精神的貞節の問題ではありませんでしょうか。」
彼は魚住千枝子のことを考えていたのである。そして彼女に対する自分の気持ちから、うっかり、取って置きの考えを言ったのだった。
ところが、山口自身で最も驚いたことには、その精神的貞節論は一座から歓迎された。多くの人々がそれに賛成した。要するに、貞節の保持者は犯罪者でないというのである。
「まるで、風儀の問題のようですな。」と先刻の燐酸の先生が大笑した。
その笑いに応ずるかのように、佐竹が言った。
「貞節なんかよりも、忿怒でしょう。現在、何物かに忿怒を感じてるかどうかによって、犯罪人であるか否かが決定されると思いますね。」
そして彼が言うところによれば、これまでの偽瞞に対して忿怒を感じてる者は無罪で、忿怒を感じない者は有罪だった。その説には何か痛烈なものがあった。然し、誰も問題に深入りしたがらなかった。故人波多野氏は怒り易かったと、変なところへ話がそれた。
故人の思い出やその頃のことが話題になった。そして一座の空気は和やかなものになった。ビールの酔いも加わってきた。
山口は故人と面識がなく、追憶の話に興味も覚えなかったので、そっと席を立った。
襖を開け放した隣室で、故人と真の親友であった井野氏が、広間の話などには全く無関心に、或る青年と碁をうっていた。この痩身長躯の篤学者は、日本服の着流しにあぐらを組み、ビールを数本ひきつけて、飲みながら碁に夢中になっていた。
山口は暫く碁を眺めた。それから外を眺めた。朝のうち切れぎれに浮んでいた雲は、四方の地平線に低く沈んで、上空は遙けく青く、庭の木の葉に斜陽が輝いていた。
いま山口は、得意でもあり不満でもあった。精神的貞節論に知名の先輩達が賛成してくれたのが得意であり、それを戦争犯罪などに自ら結びつけたのが不満だった。それは彼の身心清潔法の一部を成すもので、恋人の前でこそ語るべきものだったのである。
得意と不満との交錯は彼を大胆ならしめた。彼はそこにあった庭下駄をつっかけて、外に出た。一面に斜陽を浴びた庭はなにか寒々としていた。その彼方、袖垣の向うに、濃い煙がたち昇っていて、子供の笑い声がした。その方へ彼は歩いていった。
空樽や木の株がころがってるその空地の真中で、落葉が焚かれていて、煙りがちなのを、男の子が頬をふくらまして吹いていた。
「焚火をしているのかい。どれ……。」
山口は木の小枝をとって、煙ってる落葉をかきたてようとした。子供はそれを遮った。
「いけないよ。」
「だって燃えないじゃないか。」
「いけないよ。」
積みかさなって煙ってる落葉を、子供はしきりにかばう様子だった。
のびのびと発育した体躯の大きな子で、もう学齢ほどらしいのに、長い髪の毛を女の子のように額に垂らしていた。織目の見える古生地の粗服を着ていたが、それと対照に、ふっくらとした頬が如何にも瑞々しかった。
子供は急に嬉しげな表情に変った。建物の蔭から、彼女が、魚住千枝子が、出て来た。
いつもの端麗な顔だった。羽織なしに、紫と臙脂との縞お召の襟元を、窮屈そうなほどきりっと合せていた。その身扮で藁俵と枯枝とを胸いっぱいに抱えていた。
彼女は黙って山口を見た。
山口は会釈をした。
「お座敷の方へ、いらっしゃいませんの。」
「先程から、もう充分、御馳走になってきました。」
彼女は胸の荷を焚火のそばに投りだして、子供の方へ言った。
「たくさん焚物を貰ってきましたよ。」
子供相手に、彼女はひどく嬉しそうだった。胸元や、帯の御所車の刺繍[#「刺繍」は底本では「剌繍」]から、ちょっと埃を払っただけで、まだ藁屑をそこらにつけたまま、持ってきた芋俵らしいのを焚火にくべた。
火は横にはい、それから一斉に燃え上った。焔の先は人の顔ほどに達した。
子供は声を立てた。千枝子は飛びのいて、棒切れを拾い、俵の燃え残りを押えつけた。
山口は呆気にとられた。
「こんなに燃やして、どうなさるんですか。」
千枝子は返事をせずに、ただ自分の心に答えるように微笑した。
俵が燃えつきると、枯枝を、こんどは少しずつくべた。子供は枯枝をぽきぽき折った。真赤な藁灰の上に枯枝は爽かに燃えた。
山口は先刻の肥料の話を思いだした。
「肥料の灰でも拵えるのですか。」
千枝子は彼の方を見て、くすりと笑った。それから急に真面目になった。
「芋を焼いていますの。」
そのあとを、彼女は子供に話しかけた。
「ねえ、この薩摩芋は、畑に出来たのを、おしまいまで残しておいた、そのおしまいのものだって、ほんとうですか、それから、この里芋は、畑のはじめて掘ったものだって、ほんとうですか。」
「ほんとだよ。僕は畑の番人をしてるから、すっかり知ってるよ。」
「そう。とっておきのものに、おはつほ、嬉しいことね。だから、一番おいしくして食べましょうよ。煮るより、ふかすより、ゆでるより、こうして焚火で焼いたのが、一番おいしいんですよ。」
「僕知らなかった、お母さんに教えてやろう。」
「お母さんにも、食べて貰いましょうね。」
千枝子は灰の中から、芋をかきだした。もう半ば焦げたのや湯気を吹いてるのがあった。彼女はそれを選り分けた。
「待っていらっしゃいね。」
千枝子はあちらへ急いで行った。
山口は彼女のあとを引き受けて、灰の中の芋をかきだした。薩摩芋と里芋とがたくさん出てきた。そうしながら彼は子供に話しかけて、彼の母親はもと波多野邸にいた人であること、彼等一家は空襲に罹災して焼け跡にバラック生活をしてること、周囲に菜園を拵えてること、などを知った。
千枝子が戻って来た。美しい青磁の鉢を持っていた。その鉢に彼女は、灰
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