山口は尋ねた。
「あの人、先生のお弟子ですか。」
「弟子じゃないよ。」と吉村氏は答えた。「僕は嘗て弟子を持ったことはないし、これからも、弟子などは持たない。」
 傍見をしながら答える吉村氏の顔を、山口はじっと眺めた。
「私はあの人を知っていますよ。」
「そうらしいね。」
 冷淡な返事で、吉村氏は眉根も動かさなかった。が山口の方は、殆んど習慣的な微笑を浮かべた。そして吉村氏がそれきり黙ってるので、彼は言った。
「私は顔を知ってるだけですが……何という名前ですか。」
「え、名前って……。」
「さきほどの、あの人の名前ですよ。」
「あ、そう……。」
 そして山口は、彼女が魚住千枝子という名前であることを知った。
 これは、山口にとっていい収穫であったが、その後のことはうまくゆかなかった。山口はもともと、外交官を志望して、外務省に勤めていたが、終戦後すぐ、官省に見きりをつけて、新らしい政党の書記局にはいった。政治家も一種の対内的外交官だとの見解を持っていた彼としては、目的変更ではなくて、外務省の機能喪失を先見したわけである。そして彼が時折、一年に二回ばかり、吉村氏を訪問するのも、なにかや
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