親の厳格な監督のもとに、そういう無頓着さは許されなかったのである。それと対照して、彼女のやり方は全く愛すべき子供っぽさだと、彼には思われた。ひいては、彼女のあの返事も、決定的なものではなくて、なにか子供っぽい愛すべきものではなかったであろうか。
 彼は自分の話し方が拙劣だったのを認めた。そしてこの自分の失策を認めることが、今は却って幸福だった。単に話し方がいけなかったのである。恋にふさわしい清らかな身の持ち方をしていることなど、そういうことを先ず語るべきであろう。
 彼は上衣の胸ポケットのハンカチで、決して使わないつもりだったハンカチで、汚れた手を丁寧に拭き、そのハンカチをズボンのポケットにつっこんで、しっかり立ち直った。そしてなお暫くその辺を歩いてから、座敷の方へ戻っていった。
 斜陽は赤みを帯び、物蔭は暗かった。
 来客はもう帰りかけていた。波多野未亡人は忙しそうに往き来していた。
 そういうことをも、やはり意に介しないかのように、井野氏はまだ碁に耽っていた。山口はその側に坐りこんで、ビールを井野氏についでやり、自分も飲んだ。まだ居残ってもよい気がしたし、彼女にもなお逢いたかったし
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