者には、それにふさわしいだけの身だしなみがあるべき筈だ。風呂には、少くとも三日に一度ははいる。頭髪は、少くとも一週に一度は洗う。髯は、少くとも隔日に剃る。爪はいつも、長すぎず短かすぎず、そして決して垢を止めない。頸筋はもとより、特に耳朶を、きれいにしておく。鼻毛と指先のささくれ、これが何より禁物である。そういう身だしなみを、恋する者は当然に持たなければならない。なぜなら、恋は精神の美しさを要求し、その表現たる身体の清潔さを要求するからだ。当事者にとって、恋はすべて美しく清く、恋人はすべて美しく清く、随って恋する者自身も、美しく清くあらねばならぬ。醜く穢れた者の恋愛などは、自家撞着の甚しいものだ。もっとも、敗戦と衣食住窮乏と栄養不足とのこの時代には、多少の……。
多少の……例外は、彼自身にもあった。殊に、身だしなみとは何の関係もない生れつきの方面のことは、どうにも仕方がなかった。彼の手の甲の静脈は、三十五歳の年齢にしては余りに太すぎて、酒を飲んだり昂奮したりする時には、盛り上った網の目を拵えた。それから、横額の皮膚に、ごく薄くではあるが、点々と汚点があって、余りにととのって何等の特長も
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