に大に働いて貰いたい。今度出来た自分たちの政党は、知識階級を背景とするもので、婦人参政権を主張する恐らく唯一の政党であろう。戦争中に於ける婦人の働きを知る者は、今後の政治に於ける婦人の力を高く評価している。だから、彼女のような知識層の若い婦人たちには、その活動分野が広く開かれているし、彼女たち自ら進んで、その活動分野を利用しなければいけない、それが充分に利用されるように、吾々も力をつくすつもりでいるし、殊に……。
彼はバルコニーの木の手摺によりかかって、ゆっくり話していたが、その時、一歩ふみだそうとして、足が重いのを感じた。それを無理にふみだすと、ねっとりした重さが伝わった。足先を返して、草履の裏を見れば、芋の一片が踏み潰されているのだった。
彼は無邪気に笑い、草履の裏から芋をはぎとって、庭に投げすて、手先をハンカチで拭きながら、また無邪気に笑った。
「罠にかかりましたよ。」
然し、彼女への反応はなかった。彼女は微笑すらしなかった。その顔は緊張して、殆んど透明と言えるほどに冴え返ったが、こんどは血の気が引いてしまったかのようであって、輝きを含んだ両の眼がじっと彼を見戌っていた。だがそれもまた瞬間で、彼女は額をそむけて、芋の方にかかった。
彼は狼狽した気持ちになり、眉をしかめて、手摺を指先で打ちたたき、それから煙草を吸った。彼女の仕事は終った。
「失礼致しました。」
はっきりした挨拶、だが、にっこり笑った。そして彼女はそこを去った。
その最後の笑顔に、山口はすがりついた。
山口が彼女と相対したのは、その時が最も長かった。其後は、波多野邸で数回顔を合せたきりで、ゆっくり話す隙はなかった。けれど、彼女は彼に対して、つめたくはあるがやさしい笑顔を見せるようになった。その笑顔と、美しい指と、瞬間的な不思議な表情とは、しばしば彼の頭に蘇ってき、やがては胸の奥に頻繁に蘇ってきた。そこで彼は自分は恋をしているのだと自認した。
この恋は至って清らかなものである筈だった。彼女の指も、不思議な表情も、冷かなほどの清い美しさを持っていたし、その笑顔に妙なつめたさがあるのも、清いからに外ならないと彼は思った。そして、恋人の清い息吹きにふさわしいだけの清さに、自分の心身を維持してゆかねばならぬと、彼は考えた。
心の清らかさについては、彼は自信があった。身体の清らかさについても、今や自信が持てた。
手の爪ももうみがきあげられた。
背広服は少し古いが、純毛のもので、丹念にブラシがかけられていた。腕時計の腕輪は、革では汗や埃がしみるので、クロームの鎖に代えられていた。上衣の腕ポケットにわざと無雑作らしくつきこんだハンカチは、縁に空色の縫い取りがしてあった。少し洗いざらしで地質が損じてるのは残念だったが、綺麗でさえあればよく、実際に使用することはないものだった。それから鹿革の手套は今では自慢だった。他の如何なる布地のものも革のものも、彼に言わすればそれはただ手の袋であって、手套という文字にふさわしいのは鹿革あるのみだった。其他にはあまり自慢になるものはなかったが、その代り、全くと言ってよいくらい目立たぬほどに、香水を身にふりかけた。ただ悲しいことに、それが如何なる花のエキスだか彼自ら知らなかった。
特におめかしをした所以は、その日、波多野邸でゆっくり彼女に逢える筈だったからである。逢ってそして、彼女に意中を打ち明けるつもりだったからである。
その日の、波多野邸に於ける集りは、なにか変な工合だった。
もともと、故人波多野氏を偲ぶ夕として、その知友たちが、世話役側の知慧で、日取りを、故人の命日から未亡人の誕生日と変えたので、一種の社交的な意味合を帯びて、誰でも参集出来た。故人が多彩な政治家だったために、各方面の有力者がはいっていて、談話にも生気があった。然しこの三四年、戦争やなにかのために、その人数は次第に少くなり、前年からは、食料や交通の関係上、午後のお茶の集りということになり、時間も自由だった。
その昔[#「 その昔」は底本では「その昔」]故人からたいへん世話になったという豪商の野崎氏が、物資の方の面倒をみ、昔から波多野邸の台所をきりまわしてるお花さんが、万事を取り計らった。
広間のなかに、幾つかの大卓が置き合せられて、真白な卓布に覆われていた。その真中に、蘇鉄の鉢植えが一つ置かれていたが、これがたいへんよかった。青い鉢、苔むした土、大小五本の茎から出てる雄壮な葉など、見る眼に楽しかった。それをかこんで、いろいろなものが並んでいた。ビスケット、ホットケーキ、紅茶皿、干柿、鰺の乾物、塩ゆでの車鰕、こまかく裂いた※[#「魚+昜」、146−下−16]、南京豆、ビール瓶、コップ、茄子と瓜の味噌漬、林檎と蜜柑、小皿類……。
中央の鉢植え
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