の蘇鉄が、一座を幾つかに仕切った恰好だったので、誰もすべての人々の眼に曝される危険がなかった。そして、自由に飲食が出来たばかりでなく、各所に自由な話題を展開することが出来た。――或る将軍は、東京が空襲下にあった時のことを追想し、地方に逃避した人々のことを偲び、戦場生き残りという感懐を語った。――或る伯爵は、干柿の味をほめ、各地の名産物についての知識を披瀝した。――或る官吏は、ダンスを論じて、欧米のサロンに於けるダンスは自然に自由に座席を転じ得る社交方法だと説いた。――或る政治家は、新たに参政権を与えられる婦人の投票が、保守的な方面に多く集るだろうと予測した。
そういうところへ、半白の髪を短く刈った肥満した人がはいって来た。その人は上席の方について、真先にビールの杯を取り上げた。
「ぶらぶら歩いて来て遅くなりましたが、焼け跡も楽しいものですな。」
その声は大きく、一座のすべての人に話しかけるような調子だった。そして彼は、焼け跡の畑について語った。麦のこと、大根のこと、菜つ葉のことを語った。
「然し、収穫は乏しいでしょう。大根の根は筋ばって細いし、麦の穂も大して実りますまい。肥料が平衡を得ていませんからね。加里と窒素が多すぎて、燐酸分が足りないですよ。」
すると、末席の方から、佐竹という若い人が言った。
「そうです。すべてに燐酸が足りません。」
「なるほど、すべてに燐酸が足りないかな。」
肥満した人は笑い、佐竹は顔を赤めていた。
それだけのことが、奇妙に一座の空気をはっきり照らしだした。実は、それまで、ごく普通の話題ばかりであり、ごく普通の意見ばかりにすぎなかったが、そのごく普通のことが蘇鉄の葉蔭で話されてることに、なにか普通ならぬものがあった。十二月九日のことで、昨年までは開戦記念日の翌日だったのが、今では日本が偉大な錯誤にふみこんだ記憶すべき日の翌日、連合軍司令部の記述した「太平洋戦史」が新聞紙上に発表され初めた日の翌日、そのことも、ここには少しも反映していなかった。然し反映していないそのことが、なにか普通でなかった。それが今、はっきりしてきたのである。謂わば、卑怯らしいもの、卑屈らしいものが、あったのであろうか。
思い出されたように、ビールが盛んに飲まれた。
波多野未亡人が時々出て来て、来客たちに愛敬をふりまいた。その態度のなかに一種の気位と羞みとがこもっていて、彼女はいつもより若々しく見えた。末席に控えていた山口専次郎は、彼女の肉附の豊かな柔かさに眼をとめた。と同時に彼は、魚住千枝子の皮膚の緊張した薄さを思い浮べた。が千枝子自身はそこに姿を見せなかった。未亡人も別室に女客達があって、そちらへ行くことが多かった。
「日本のビールは世界的なものですな。アメリカの兵隊も、これだけは讃美していますね。」
そういうことから、戦争犯罪のことに及んでいって、猪首の人が、犯罪人としての通告を受けた人々について話をした。或る者は泰然自若として、顔色一つ変えなかった。或る者は蒼白になって、来客の前にも拘らず手の煙草を取り落した。或る者は渋柿をなめたようなしかめ顔をした。或る者は……。
それらの話は、まるででたらめのようでありながら、その本人を識ってる人々にとっては躍如たる面目を伝えるような点があって、一座の注意を惹いた。ところが、個人的なその事柄に注意を集めたためか、戦争犯罪自体の問題は白々しいものとなり、その白々しいなかで、あなたは誰かと互に尋ね合っているような雰囲気を拵えた。これにも鉢植えの蘇鉄が役立った。蘇鉄の葉蔭で、知人同士、あなたは誰かと尋ねあった。
「ばかばかしいことですよ。責任のないところに犯罪はない。而もその責任がどこにも見付からない状態でしたからね。」
そういう議論になった時、山口専次郎は言葉を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]んだ。
「犯罪のことは、つまりは、精神的貞節の問題ではありませんでしょうか。」
彼は魚住千枝子のことを考えていたのである。そして彼女に対する自分の気持ちから、うっかり、取って置きの考えを言ったのだった。
ところが、山口自身で最も驚いたことには、その精神的貞節論は一座から歓迎された。多くの人々がそれに賛成した。要するに、貞節の保持者は犯罪者でないというのである。
「まるで、風儀の問題のようですな。」と先刻の燐酸の先生が大笑した。
その笑いに応ずるかのように、佐竹が言った。
「貞節なんかよりも、忿怒でしょう。現在、何物かに忿怒を感じてるかどうかによって、犯罪人であるか否かが決定されると思いますね。」
そして彼が言うところによれば、これまでの偽瞞に対して忿怒を感じてる者は無罪で、忿怒を感じない者は有罪だった。その説には何か痛烈なものがあった。
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