一つの愛情
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)小説5[#「5」はローマ数字、1−13−25]
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文学者のところには、未知の人々から、いろいろな手紙が舞い込んでくる。威勢よく投げこまれた飛礫のようなのもあれば、微風に運ばれてくる花の香のようなのもある。それらが、文学者自身の心境の如何によって、さまざまの作用をする。だが、返事を出すも出さぬも、それは彼の自由である。知らない人から突然もらった手紙だから、黙殺しても応答しても、一向に構わないわけだ。大抵の場合は返事を書かないらしいが、時によっては心やさしい返事を書くこともあるらしい。
文学者吉岡信一郎のところへ、或る時、美しい文字の手紙が届いた。彼はもう五十歳近くになっていて、たくさんの小説を書いてきたが、近来、なんとなく気力の衰えを自覚し小説もあまり書けず、人生、というよりも人間が嫌になり、ひいては自分自身にも嫌気がさし、うらぶれた気持ちに沈んで、酒ばかり飲んでいた。突然舞い込んで来た美しい文字の手紙も、いいかげんに読んで、打ち捨てておいたが、あとで、なにか心にかかるものを感じて、ゆっくり読みなおしてみたのである。
お暑さ容易に去りませぬ候、吉岡先生には御機嫌うるわしく御消光遊ばされましょうか。私事、身の程もかえりみませず、ぶしつけにもお手紙など差上げます愚かさを、どのようにか無礼とお怒り遊ばしましょう。
この世で一番おえらいと思い申上げております先生、御写真を朝夕眺めましては、いつの間にかひとりで、夢にでもよい、お言葉を頂ける身になれたらなどと、とりとめもない心に、只そればかりをはかない生き甲斐として、胸の奥深くに抱き続けてまいりました。
私は何もわからない人生の門出に於て、もはや健全な健康を失ってしまいました。それがどのように悲惨なことか。死にも死にきれぬ、生きも生ききれぬ、苦しい苦しい懊悩に、人知れず血の涙を流してまいりました。
肉体のわずかな重荷にも堪えきれぬ、心のわずかな苦痛にも堪えきれぬ、虫のように、白痴のように、何もなし得ぬ我身の不甲斐なさを、どのように辱と忍従で受け味わねばならぬことでございましょう。愚かしくゆがみちぢんだ哀れ
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