然しその叫びは世に容れられない。ふるさとの人にさえも容れられない。そして時とすると、彼が軽蔑している無数のもののために、泣かされそうになる。

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負けたくない!
頬をつたう涙線の数をかぞえ乍らぼうぜんと空を見ていると
おろかな人間を無性になつかしく思える日である。
[#ここで字下げ終わり]

 然しそれは一寸の心のゆるみの隙間の日だ。彼はまた勇ましく立上る……。
 植村君はその詩集の扉に、「祖国なきよろこびと悲しみと」と私に書いてよこした。そして私がここに詩集のことを述べるのも――それもよい詩を選んで紹介するのではなく、勝手な総合的叙述を試みたのも――実は、「祖国なき喜びと悲しみと」を、現時の所謂純文学にたずさわってる多くの文学者が、広い意味において、感じているであろうと思うからである。
      *
「祖国なき喜びと悲しみと」――この祖国は、マルクス派の謂う所の祖国とは、全然異ったものである。
 マルクスの共産党宣言中の文句は、「プロレタリアートは祖国[#「祖国」に傍点]を持たない。」と解釈すべきではなく「プロレタリアートは自国[#「自国」に傍点]を持たない。」と解釈すべきであろう。
「資本主義の下に於て、一体労働者は何等かの祖国を持っているか、否か。……国家の権力を掌握してその支配者となった時、ただその時にのみ、プロレタリアートは祖国を持つであろう。ただその場合に於てのみ、その祖国を擁護することがプロレタリアートの義務である。なぜなれば、その際にはそれが擁護しつつあるものは、自身の権力と自身の問題であって、それは敵の権力を擁護しているのではなく、其抑圧者の強奪政策を擁護しているのではないからである。」とこういう風に説くブハーリンの文章を読む時、たといそれが戦争を主題としたものであろうとも、祖国という言葉が如何に不当な使用を受けてるかを、吾々は感ずる。吾々が持つ祖国の観念は、権力の観念を離れたものである。権力の観念と結びつく国家という言葉と、そうでない祖国という言葉とは、吾々の胸に異った響きを伝える。
 茲にいう祖国――広い意味での祖国――とは、同感を有する民衆の生活雰囲気を指す。民衆の生活雰囲気から同感を持たれない者は、常に一種の異邦人である。一足前方から、あるいは一歩深いところから、民衆に呼びかけようとする者は、多くは異邦人の歎を経験す
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