或る男の手記
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)剃刀《かみそり》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)随分|懶《なま》け者
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]していた
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もう準備はすっかり整っている。準備と云っても、新らしい剃刀《かみそり》と石鹸と六尺の褌とだけだ。それが、鍵の掛った書棚の抽出の中にはいっている。私としては、愈々やれるかどうか、それを試してみるだけのことだ。然しその前に、一切のことを書き誌してみたい――と云うより寧ろ、文字というはっきりした形で考えてみたい。馬鹿げた欲求だということは分っているが、そうにでもしなければ、何かしら心に落着《おさまり》がつきにくいのだ。
とは云え、どこからどう書いていったものか、一寸見当がつきかねる。いろんなことが一時に持上った混乱した事件だけに、本当の筋道を辿りそこなうこともあるだろうし、重大な事柄を見落していることもあるだろうし、私の知らない隠れた事実もあるだろう。然しそんなことを心配していてはきり[#「きり」に傍点]がない。自分を中心に――そうだ、この場に及んでもやはり自分だけが中心だ――ぐんぐん書いてゆく外はない。
ある日……表面的にはあの日が発端だった。からりと晴れた小春日和で、田舎には小鳥でも鳴いていそうな日だった。実際井ノ頭の木立の中には、小鳥の声が爽かに響いていた。そして私は、郊外の大気と日の光とに我を忘れてる光子《みつこ》を眺めて、小鳥のような女だと思ったのだった。そして私もまた、何かしら心が浮々としてきたのだった。……が、こんなに筆が先へ滑っては仕方がない。
その日の午前十時頃、私が会社の室で、何だか満ち足りない焦燥のうちに茫然としてる時……と云っても、そんな気持はその日に限ったことではなく、もう長い間の私の心の状態となっていたのだが、それは後で云おう。でその日もやはり、落着いたような落着かないような気分に浸って、ぼんやり煙草を吹かしていると、女の人から電話だと給仕が取次いできた。何の気もなく電話口に立つと、それが月岡光子だった。「月岡光子でございます、」と彼女は姓までつけ加えて名のった。彼女の姓が月岡だということは前からよく知ってはいたが、電話で改めて聞かされると、それが私の頭の中で物珍らしく躍ったものだ。
「お目にかかって至急お話申上げたいことがございますが、そちらへお伺いしても宜しゅうございましょうか。」
「さあ……。」と私は口籠りながら、余りの意外さに躊躇したものの、相手の急《せ》き込んだ語気からして、何かしら切羽《せっぱ》つまった心を感じて、兎も角もお出でなさいと承知してしまった。
彼女が私に逢いに会社の方へやって来るということは、私と彼女とのこれまでの関係からすれば、全く調子外れのものだった。来るなら自宅の方へ来そうなものだ、そして私の帰りが待ちきれないというなら、妻へ話しても用は足りる訳だ、などと私は考えながら、また一方には、それを押して会社へ出かけてくるくらいだから、何かよっぽどの事件に違いない、などという好奇な期待の念が、私の心に甘えかけてきた。
一時間ほどたって、彼女は会社へやって来た。その間に私は、大体の仕事を急いで片付けて、いつ会社を退出してもいいようにしておいた。勿論意識してそうしたわけではなく、自然に気が急《せ》いてそういう結果になったのだった。一体私は、平素はのらくらしていて随分|懶《なま》け者だが、一朝事があると――と云えば大袈裟だけれど、例えば子供が病気で入院したりなんかしてる場合には、人手の少い家の中でいろんな用をしながらも、平素の幾倍となく自分の仕事を捗らすのである。「あなたくらい妙な人はない、忙しい時ほど仕事がよくお出来になるんだから。」と妻はよく私に云ったものだが、私としては、泰平無事な時よりも、苦しい脅威が迫ってくればくるほど、心に張りが出来るし働き甲斐があって、ぐんぐん仕事が進むのである――仕事といっても、英語の小説の飜訳くらいなものだが。然しそういう状態はいけないものだった、少くとも変則のものだった。多くの人は落着いて仕事をしたいと云うのに、私だけは、落着いていては仕事が出来ないというのだから。それに……いやこのことも先で云うことにしよう。
私は光子を応接室に通さしておいて、ゆっくりと心構えをしながら出て行った。光子は私の姿を見ると、喫驚したように立上ったが、ぎごちないお辞儀を一つすると同時に、微笑とも苦笑ともつかない影を顔に漂わして、そのまま腰を下ろしてしまった。そして、私が腰を下ろしてからやや間を置いて、改まった調子で初めて口を開いた。
「あの……お邪魔ではございませんでしょうか。」
「いいえ別に……。」そして私は一寸落着かない心持で尋ねた。「何か急なお話があるんですか。」
「ええ、是非先生に聞いて頂きたいことがございましたんですけれど……。」
だんだん語尾の調子をゆるくしながら口籠ってしまって、変に固苦しくかしこまった。その様子を私はじろじろ見やりながら、遠廻しにそれとなく話を引出そうとした。然し彼女はなかなかそれらしい話を切出さなかった。河野さんの家に於ける生活状態などを、私の問に対して簡単な文句で答えはしたが、心が外に向いてることは、その様子にも明かだった。時々辻褄の合わないことを云っては、それを自ら意識してる風もなく平気で、私の方へちらと黒目を向けるのだった。
黒目を向ける……とは変な云い方だけれど、実際彼女の眼には特長があった。私は初めて彼女に逢った時から、その眼に一寸興味を惹かれた。初めて逢ったと云っても、そう遠い前のことではない。今年の六月、一寸した用件のついでに、北海道を暫く旅して廻って、登別の温泉に泊った時、髪の結い方から服装から言葉遣いまで、女中というよりは寧ろ女学生といった風な二十歳ばかりの女が、私の許へ夕食の膳を運んできた。そしてお給仕をしながら、そういう場合のありふれた会話の間々に、彼女は私の方へちらちらと黒目を向けた。もっと詳しく云えば、両方の黒目が薄い上眼瞼に引きつけられて、恰も近視の人が額に物をかざして眺める時のような眼付、もしくは、若い女優が舞台の真中に立って空を仰ぐ時のような眼付、そういった風などこか不安な色っぽい眼付なのである。それでいて決して上目を使っているのではなく、真正面に私の方を見てるのだった。私がそれに注意を惹かれて捕えようとすれば、瞳にさっと細やかな光が揺れて、黒目は元の――普通の――位置に復してしまう。後で私は知ったのであるが、北海道の女には、殊に不品行な女には、そういう眼付を持ってる者が多いようである。然しただ彼女の眼付には、不品行などという影は少しもなく、固より処女ではなさそうだけれど、濁りのない純な光が輝いていた――が或はそれも、純白な白目のせいかも知れない、と今になって私は思う。この女が、月岡光子だった。私はその温泉に五六日滞在していたので、光子とは可なり親しみが出来た。彼女自身の云う所に依れば、彼女は札幌の文房具屋の娘で、遠い縁続きになるその温泉宿へ、保養旁々来ていた所が、女中の手が足りなくなったために、一時余儀なく手伝いをしてるのだそうだった。やがては女中も来るから、そしたら暫くの間、見物がてら東京へ出るつもりだなどと云って、先生と私のことを呼びながら、私の住所なんかを聞きただした。話の調子や趣味やなんかから、私を文士かなんぞのように誤解したものらしい。私は面倒くさいから強いてその誤解を解こうともせず――実は私も英語の小説の飜訳なんかを内職にしてるので、文士のはしくれと云えば云えないこともなかったのだ――また、別に彼女に対してどういう気持もなく、ただその黒目を見るだけで満足していた。それから旅を続けると共に、彼女のことは忘れるともなく忘れてしまった。そして八月の半ば、若い女が不意に東京の私の自宅へ飛び込んできて、月岡光子と女中へ名前を通した時、私はそれが彼女であるということを、逢ってみるまでは思い出せなかった。
所で、会社の応接室で、いつまでも肝心の話を持出しそうにない光子を相手に、多少じれったい気持になりながらも私は、彼女がもじもじすればするほど、表面だけは益々落着き払って、時々黒目が上眼瞼に引きつけられる彼女の眼付を、物珍らしそうに待受けてるうちに、ふと、北海道の温泉宿のことをまざまざと思い浮べ、次には、窓の外の澄みきった蒼空を眺めやり、次には、いつ人がはいって来ないとも限らない鹿爪らしい応接室を、そぐわない気持で見廻して、こんな所で彼女が話しにくいのも無理はないと考えた。と同時に、解放された晴々とした所に出てみたくなって、少し外を歩いてみようかと云ってみた。
光子は喫驚したように黒目を据えて眼を見張ってから、暫く何とも云わなかった。
「それに、もう時間だから、何処かで昼飯でも食べましょう。」と私は云った。
彼女は御飯は頂きたくないと答えたが、お差支えがなければ外を歩いた方がいいと云い出した。
私は社の上役に断っておいて、光子と一緒に外へ出た。丁度その日私は和服をつけていたので、袴が多少邪魔になりはしたけれど、洋服よりは都合がよかった。ステッキを打振ったり引きずったりしながら、内幸町から宮城前の堀端の方へ歩いていった。街路の地面は心地よく乾いていて、ほっこりとした温《ぬく》みのある日の光が、私達の身体を包み込んだ。光子は軽快な足取りで私と並んで歩きながら、変に黙り込んでしまった。それも何かを思い耽ってるという風ではなく、顔付も眼付も暢《のび》やかになって、何だかこう夢をでもみてるかのようだった。昼飯を食べようかと云っても、欲しくないとだけ答えた。一体どうしたというんだろう? 私にはさっぱり訳が分らなくなった。思い切って真正面から、話というのはどんなことですかと、少しきつい調子で尋ねてみた。
「もういいんですわ。先生にお目にかかったら、どうでもいいような気がしてきたんですもの。」
「それで?」
「それでって……。」
そして彼女は一寸地面を見つめたが、何を思い出したのかくすくすと一人笑いをした。たったそれだけのことだが、それが私の心を軽く憤らした。この軽い憤りほど始末の悪いものはない。殊に相手が、反感も憎悪もない快い異性の時にそうである。私は甘っぽく嵩《かさ》にかかってゆく気持になって、急な大事な話というのを聞かないで、このまま光子を放すものかと決心した。そして、どうしたら彼女が話し出すだろうかと思い惑ってる所へ、高い角張った建物や電車自動車の響きや忙しげな通行人など、眩しい錯雑した都会と、私が朧ろげながら推察してる彼女の話の内容――恐らくは恋愛問題――とが、相容れない世界となって心に映ってきたので、こんな風ではとても駄目だと思って、知らず識らず歩みを止めた。もういつのまにか堀端に来ていた。葉の散った柳の細い枝影を、派手な大柄な絣の米琉の着物に粗《まば》らに受けて、一二歩先で足を止めて私の方を振向いた彼女の姿が、堀の水と空とを背景にくっきりと浮出して見えた。
「いい天気だから、郊外でも少し歩いてみましょうか。」と私は、その瞬間の咄嗟の思いつきに自ら微笑みながら云った。
「ええ、先生さえお差支えございませんでしたら。」と彼女は平気で答えた。そして日傘の先で、ぐいぐいと地面をつっついた。――水浅黄に黒で刺繍のしてある日傘を、彼女はその日一度もささないでステッキのように持ち歩いたのを、私は今はっきりと思い出す。
私達は東京駅へ折れ込んで、それから電車に乗った。初め私はただ漠然と郊外でも歩くつもりで、中野までの切符を買ったが、乗り込んだ電車が吉祥寺まで行くものだったから、一層のこと井ノ頭へ行ってみようと思った。
「東京にも、北海道ほどじゃないが、静かな落着いた公園があるから
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