てくれたまえ。」
「ええ帰ります。」
 彼は飛び上るように立ち上って、室から出て行った。その力強い足音が階段に消え去ると、私は急に気力がぬけはてたようになって、机の上にもたれかかった。そして暫く惘然としているうちに、全く無用な自分自身を見出した、と同時に、或る広々とした所へぬけ出した気がした。
 それは一寸名状し難い気持だった。世界が俄に晴々としてきて、自分自身が遠くへ薄らいでいって、何もかもどうでもよくなった。松本がどうしようと、光子がどうしようと、俊子がどうしようと、私がどうしようと、生きようと死のうと、どうでもよくなった。死ぬことだって自由だ。そして私は死へ微笑みかけていった。
 一時間ばかりして俊子と顔を合した時、彼女は私を睥み据えた。
「あの女の手紙を御覧になりましたか。」
「ああ見たよ。」と私は落着いた調子で答えた。「なるほど、お前が松本君をすすめて僕の方へも見せに来さしたんだね。お蔭で僕はすっかり安心したよ。」
「安心ですって! まあ何て恥知らずな卑劣な……。私もうあなたの顔を見るのも厭です!」
 そして彼女は物に慴えたように肩をぴくりとさして、向うへ行ってしまった。
 
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