。」
私は黙って首肯《うなず》いた。
「では、先生、これで……。」
そして彼女は改まったお辞儀を一つした。その先生というあの時以来初めての言葉と、その時彼女の頸筋にはっきり見えた生々しい紫色の痣とが、今でも私の心にはっきり残っている。
彼女が出て行った後、私は椅子に身を落して両手に顔を埋めた。涙がしきりに出て来た。その泣いている自分自身に気がつくと、急に訳の分らない苛立ちを覚えて、前にあった葡萄酒を半分ばかり飲んでしまった。それから其処を出て、その足ですぐ会社へ行き、急な雑用をすっかり片付けておいて、途中で食事を済まし、晩の八時頃家に帰った。
私は平素の自分を取失ったようになっていた。絶えず万一のことを期待する気持に駆られていた。その万一が何のことだかははっきりしなかったが、光子からあの変な話をきかされた時から、何もかもこんぐらかって圧倒されるような心地の底に、ただ一つ、或る漠然とした万一の場合を予想する念が萠して、それが次第に私を囚えていった。泣いてる自分自身に気付いて苛立ったのも、会社へ行って大体の用を片付けたのも、食事後すぐに家へ帰ってきたのも、みなそのためだった。家へ帰
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