てくれたまえ。」
「ええ帰ります。」
 彼は飛び上るように立ち上って、室から出て行った。その力強い足音が階段に消え去ると、私は急に気力がぬけはてたようになって、机の上にもたれかかった。そして暫く惘然としているうちに、全く無用な自分自身を見出した、と同時に、或る広々とした所へぬけ出した気がした。
 それは一寸名状し難い気持だった。世界が俄に晴々としてきて、自分自身が遠くへ薄らいでいって、何もかもどうでもよくなった。松本がどうしようと、光子がどうしようと、俊子がどうしようと、私がどうしようと、生きようと死のうと、どうでもよくなった。死ぬことだって自由だ。そして私は死へ微笑みかけていった。
 一時間ばかりして俊子と顔を合した時、彼女は私を睥み据えた。
「あの女の手紙を御覧になりましたか。」
「ああ見たよ。」と私は落着いた調子で答えた。「なるほど、お前が松本君をすすめて僕の方へも見せに来さしたんだね。お蔭で僕はすっかり安心したよ。」
「安心ですって! まあ何て恥知らずな卑劣な……。私もうあなたの顔を見るのも厭です!」
 そして彼女は物に慴えたように肩をぴくりとさして、向うへ行ってしまった。
 俺が死んだら彼女はどう思うだろう、と想像して私は微笑を洩した。俺にだって死ねないとは眼らない! そして私はいろんな自殺の方法を考えて見た。首を縊る……毒を飲む……頸動脈を断ち切る……頭か心臓かに拳銃を打ち込む……然しどれも面白くなかった。もしその瞬間に死ぬのが厭になってももう間に合わない。生きるも死ぬるも自由な方法が私には必要だった。いろいろ考えているうちに、ふといいことを思い出した。手首の動脈を切って徐々に貧血してゆく死に方は非常に快いものだと、何かで読むか聞くかしたことがあった。これだと私は思った。生きたくなれば出血を止めればいいし、やはり死にたければそのままにしておけばいい。そしてその方法を頭の中でこね廻しているうちに、私は湯槽の中でやってみようときめた。死んだ場合に余り醜くないように、身体をよく洗っておいて、褌をしめて、それから剃刀で手首の動脈を切って……大して痛くもないだろう……それを湯の中につけておけば、出血が途中で止ることもなく、面白い幻覚をみ続けながら、苦痛もなく徐々に死ぬことが出来る。女中は何処かに使に出しておけばよいし、俊子は私の方を見向きもしないから大丈夫だ……。
 私は雨のしとしと降る中を出かけていって、もっと降れもっと降れという明るい気持で、新らしい石鹸と剃刀と白布とを買って来た。その白布を六七尺の長さに鋏で切った。猿股でなく褌を用いるのが私の気に入った。馬鹿に高価だと思いながら一番匂がいいと云われて買って来た石鹸は、見馴れない黒い真円いものだった。それも私の気に入った。よく切れるのをと云って買ってきた剃刀は、まだ本当に刃が立っていないらしかった。私は仕方なしに革砥ですっかり研ぎ上げた。そしてその三品を書棚の抽出にしまった。
 所が、一切の準備が出来上ってから、これで俺は死ぬのかしら、本当に死ぬのかしら……という疑いが起ってきた。何しろ私はごく自由な晴々とした気持になっていた。松本と光子よ、君達は輝かしく生きるがいい、河野さんよ、あなたは金の力で勝手な真似をなさるがいい、俊子よ、お前は俺から解放されて自由な途を歩くがいい、子供等よ、お前達は力強く生長するがいい、其他私の知ってる人々よ、君達は健在であれ!……そう呼びかけたいような気に私はなっていた。これで死ぬのかしら……と私は不安になり初めた。そして、いや死ぬものか! という思いと、いや死ぬのだ! という思いとが、同じ強さで起ってきた。
 私は自ら茫然としているうちに、ふと思いついて、この気持に落着《おさまり》をつけるために、事件の一切を書き誌してみようと決心した。そして殆んど寝食を忘れて書き続けてきた。すると、妙なことが起ってきた。
 井ノ頭の翌朝、私は一種無批判な盲目的な心境に陥ったことがあるが、それと似寄って而も気分は全く異った心境に、私は次第に浮び上っていった。あの時は陥ったのであるが、こんどのは浮び上ったのである。無批判ではなくて一切の批判を絶した、盲目的ではなくて眼をじっと見開いた、昼でもなく夜でもない薄ら明りの、落着いた静かな空しい心境だった。何のために? ということがないと共に、なぜ? ということも一切なかった。そして心の奥から、そうだそうだ! という声が響いていた。何がそうだかは分らないが……と云うより寧ろ、何がそうだかは問題でなくて、ただ静かにそうだった。髪の毛一筋も埃一粒も揺がないで、ただ静かにそうだった。
 斯くてあれかし!……ふとそんな文句が私の心に浮んだ。死も生もその境をなくして、ただ斯くてあれかし!
 私は死ぬかも知れない、或は死なないかも知
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