で俊子は、殆んど用事だけの口をしか利かないで、冷たい蒼ざめた顔をして、何処かの隅にぽつねんと考え込んでいた。そして突然気付いたかのように、子供達に対していろんなことをしてやるのが、益々家庭内の空気を不安になすのだった。
 その不安な空気に堪えられなくなると、私は彼女から身をもぎ離すようにして、二階の書斎に上っていった。そして家庭的な空気が少しずつ遠くへかすんでゆくにつれて、外部の新たな不安な空気が、私へ重くのしかかってきた。松本や光子や河野さんのことなどが、解くことの出来ない縺れをなして、壁のように立塞がっていた。それをじっと見つめて、苛立たしい焦燥のうちに室の中を歩き廻りながら、私は次第に或る忌わしい想像を打立てていった。まだ眼に残ってる光子の頸筋の斑点やら、俊子に対して懐いた恥しい疑惑やら、殊には河野さんが光子を渡さない処置などから、其他全体の事件の成り行きから、私はこのままで河野さんと光子との間が終るものかと想像して、云い知れぬ恥しさと憤激とを覚えた。その時私の頭に映った河野さんは、荒い赤毛を頭の上にむりに撫でつけ、太い眉の下にぎろりとした眼を光らし、皮膚のたるんだ頬に太い筋のある、ただ一個の人間ではなくて、獣的な力強い性慾を具体化したものだった。そして私はこんどの一切のことに復讐する気で、河野さんと決闘してみようかと思った。初めふと浮んだその考えは、何度も頭に戻ってくるうちに、ただそれだけがあらゆる屈辱を払いのける唯一の手段のように思われてきた。日本人だからとて決闘していけないわけはない、そう自ら心に叫んで、私は拳銃を手に入れる方法を考えたり、河野さんから借りた金額を胸勘定したりした。どうせやるなら堂々と、金を返した上で拳銃で打合いたかった。所が私には、一体どれほど河野さんから借金があるのか、はっきりしたことが分らなかった。五千円を越してるかも知れないとぼんやり思うだけで、明確な所は俊子に聞かなければならなかった。家財道具を売払ったり友人に借りたりしても必ず金は返してみせる、その上で……と決心して俊子の方へやっていった。然し俊子の冷たい眼付に出逢うと、私はそれを云い出しかねた。浅間しい疑惑の一件が、しきりに邪魔となってきた。
 その上俊子は、私の一身からひどい嫌悪と圧迫とを感じてるらしかった。絶えず私に顔を外向けて背を向けようとしたし、私の前を避けようとしていた。夜中に私がふと不安な心地で我に返って、彼女の寝ている方を窺うと、二燭の電燈のぼんやりした光の中で、布団の上に坐ってる彼女の寝間着姿が見えた。私は喫驚して息を凝らした。やがて彼女はぶるっと一つ身震いをして、傍に寝ている達夫の方に屈み込んで、その額に頬を押当てた。暫くすると立上って、ふらふらと室を出て行こうとした。私は飛び上ってその手首を捉えた。
「何処へ行くんだ!」
 私の手の中で彼女の手首はぶるぶると震えた。それから石のように冷たく固くなった。
「放して下さい、退《ど》いて下さい。」と彼女は夢遊病者のような声で云った。「私はあなたの側にいるのが厭です。他の室へ行って下さい。他の家へ行って下さい。暫く旅に行って下さい。それでもあなたが此処にいると仰言るなら、私が出て行きます。暫く何処かへ行ってきます。いえ、放して下さい。」
 彼女は無理に身を遁れようとした。私は力の限りそれをねじ伏せて、彼女の布団の中に押入れた。
「お前が僕と一緒に暮すのを厭がるなら、そのようにしてやる。僕は考えてることがあるから、今に何もかも片をつけてやる。二三日待っててくれ。」
 そして私は自分の布団にもぐり込みながら、河野さんとの決闘の計画をまた思いめぐらしてみた。
 然し今考えると、私は本当に河野さんと決闘するつもりではなかったらしい。ただ息苦しさの余りそういう空想に縋りついていったものらしい。河野さんからの借金の額を俊子に尋ねもしなかったし、金を拵えようともしなかったし、拳銃を手に入れようともしなかった。そして松本に逢うと、その決心は跡形もなく消え失せてしまったのである。
 私が光子に逢った日から中二日おいて、雨のしとしと降る三日日の午前、松本がふいにやってきた。
 その時私は二階の書斎で、火鉢にかじりついて雨音をぼんやり聞いていた。前々日来一歩も外に出ないで、会社のことなどは勿論頭の外に放り出し、飜訳のやりかけにも手をつけず、ただ息苦しい空気の中に浸り込んでた間の時間が、非常に良いことのように思われた。そして影絵のようにぼんやりと、いろんなことが見渡されて、陰欝な佗しい影に包み込まれた。これまで嘗て、これが本当の自分の仕事だと思って働いたこともないし、はっきりした心の苦しみや喜びを感じたこともないし、物事に対して明確な批判を下したこともないし、妻や子を真面目に愛したこともないし、ただ
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