ていた。
 夜になって、彼は初めて我に返ったように、試験答案の調べにかかった。煙草をやたらに吹かし、時々重苦しい溜息を吐き、一晩中一睡もしないで、朝の七時頃までに二百枚余の採点を終った。
「僕はなまけ者だけれど、責任を果すことは知っている。」
 蟻の話を彼の母親が私に訴えた時、彼は昂然とそう云ったのだった。
 だが、蟻と虫との闘を一日中眺め耽って、何の足しになるか、またどこが面白いか、それについては彼は何にも云わなかった。恐らく彼自身にも分ってはいなかったろう。
 そして単に蟻ばかりではなく、つまらないことに長谷部は夢中になる癖があった。
 彼の母親が肺炎を病んで、だいぶ悪いということだったから、私は或る時見舞にいってみた。
 三月の末の午後二時頃のことだった。春陽《はるび》がうららかに射してはいたけれど、まだ大気が冷くて木の芽もふくらんでいなかった。それなのに、肺炎だという彼の母親は、障子を開け放した室に寝ていて、彼は縁先の庭に跣足でつっ立っていた。
「やあ、今すぐだから、一寸待っててくれ給え。」
 そして彼は、恐らく午前中から初めたらしい庭弄りを、不器用な手先でまたやり出した。私は
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