きてる蠅を与えて、羽をぶんぶんさせながら間もなく蟻の群に征服されるのを、面白そうに見ていた。終りには、大きな砂糖の塊《かたまり》を其処に置いて、蟻が吸いついたり、食いもぎって持っていったりするのを、縁側に腹匐いになって眺め初めた。
 そんなことで、午前中は早くも過ぎてしまった。午後になると、彼は砂糖がまだ残ってるのを覗いてみて、更めて残酷な遊びを初めた。庭の隅の萩の若芽から油虫を取ってきて、それを蟻に与えた。裏口の土の中から蚯蚓を探し出してきて、それを蟻に与えた。大きくて蟻が引ききれないような蚯蚓は、棒の先で二つか三つかにぶっ切って、苦しみ※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]いてるのをそのまま与えた。その他いろんな虫を与えてみた。毛虫には、二つに切った傷口にでなければ、蟻は食いつけなかった。蛞蝓《なめくじ》には、決して蟻は寄りつかなかった。
 七月の太陽がぎらぎら照りつけてる中で、彼は額に汗をにじませながら、誰が何と云っても耳を貸さないで、生きた虫類が蟻に取巻かれてのたうち廻ってる、その不気味な光景に夢中になって、夕方まで過してしまった。日が陰ってきても、頭のしんがくらくらしていた。
 夜になって、彼は初めて我に返ったように、試験答案の調べにかかった。煙草をやたらに吹かし、時々重苦しい溜息を吐き、一晩中一睡もしないで、朝の七時頃までに二百枚余の採点を終った。
「僕はなまけ者だけれど、責任を果すことは知っている。」
 蟻の話を彼の母親が私に訴えた時、彼は昂然とそう云ったのだった。
 だが、蟻と虫との闘を一日中眺め耽って、何の足しになるか、またどこが面白いか、それについては彼は何にも云わなかった。恐らく彼自身にも分ってはいなかったろう。
 そして単に蟻ばかりではなく、つまらないことに長谷部は夢中になる癖があった。
 彼の母親が肺炎を病んで、だいぶ悪いということだったから、私は或る時見舞にいってみた。
 三月の末の午後二時頃のことだった。春陽《はるび》がうららかに射してはいたけれど、まだ大気が冷くて木の芽もふくらんでいなかった。それなのに、肺炎だという彼の母親は、障子を開け放した室に寝ていて、彼は縁先の庭に跣足でつっ立っていた。
「やあ、今すぐだから、一寸待っててくれ給え。」
 そして彼は、恐らく午前中から初めたらしい庭弄りを、不器用な手先でまたやり出した。私は障子を閉め切り、火鉢に炭をついで湯気を立たせ、母親と少しばかり話をし、それから寝転んで、新聞や雑誌をくり拡げ、時々障子の腰硝子から彼の方を覗いてみた。
 庭といっても、七八坪の狭いものだったが、植込や配石など相当に拵えられていた。それを彼は、跣足になり裾をからげ、シャベルや鍬や鋏を持ち出して、やたらにかき廻していた。大きな石を据え直したり、木を植え直したり、それをまた何度もやり直したり、石のまわりの竜髭《りゅうのひげ》を取除いてみたり、再び植えつけてみたり、それから庭の隅に穴を掘って、その土で或る部分に土盛りをし、足で丹念に踏み固めたりして、今すぐだというその仕事が、永遠に終りそうもなかった。
 仕事の合間には一寸縁側に腰を下して来て、泥の手で煙草を吸いながら、室の中に声をかけた。
「どうです、気分は……。障子を開けましょうか。」
 私は喫驚して、肺炎だというのに障子を開けちゃいけないと云った。然し彼は、一寸なんだからと弁解して、障子を少し引開けて、うとうとした眼を見開いてる母親の顔を眺めてから、また庭の仕事の方へ行った。その後で私は、腰を伸して障子に手をかけた。
「まだ陽気がさほどでもありませんから閉め切った方が宜しかありませんか。」
「ええ……。」
 母親は曖昧な返辞をして、人の善い微笑を浮べた。私は構わず障子を閉めきった。
 そんなことが二三度くり返された。そして何時間かの後、もう日脚が隣家の屋根に遮られてしまった頃、彼は漸く足を洗って上ってきた。
「ああ疲れた。」
 私は少し憤慨していた。いくら自分が庭で働いてるからって、肺炎の母親が寝てる室の障子を開け放す法はないと、そう思ったばかりでなく、実際口に出して彼をたしなめた。が彼は平然としていた。
「そりゃあそうだが……然し……もうよほどいいんだよ。ね、お母さん、いいんでしょう。今日は大変いいんですね。」
「ええ、お影さまで……。庭の仕事は、もう済みましたか。」
「済みました、すっかり。これでさっぱりした。」
 そして彼等親子は、晴々とした眼付で微笑み合っていた。それから、そのままの笑顔で、私に向って云うのだった。
「思い立ったら、まるでもう赤ん坊のようでございましてね……。」
「いや、余り長く待たして済まなかったね。」
「なあに……。」
 とただそれだけで、私は苦笑するより外、何と答えていいか分らなかった。彼
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