時間ですよと促すことがあった。すると彼は夢想のさなかからひょいと立上って、黙って先に出ていって、振向きもしないでとっとっと歩き去ったそうである。
その他、まだ私の知らないいろんなことがあったとしても、彼の結婚決心の動機なるものは、どうも不可解だった。それまで大して人の口にも上らなかったほど、二人の間は淡いものだったらしい。それが、突然の指輪となり、突然の求婚となったのだった。
結果は簡単に述べておこう。私は学校の人達に逢って、どうしても長谷部が職に留ることは出来なくなってるのを知った。そして、長谷部の未来のことや現在の貧しい生活のことなどを考えて、ただ嘆息するの外はなかった。
幸にも事件はうまく片付いた。彼女の家は、ひどく零落はしていたが、血統やなんかは正しいらしかった。彼女も彼女の一家も結婚を承諾した。長谷部の母も結婚を承知した。そして長谷部はその後、或る製菓会社にはいった。製菓会社とは面白いが、更に面白いことには、其後学校で女給仕を廃して男にしたということを聞いた時、長谷部は飛び上って愉快がったのである。
「学校に女の給仕を置くなんて、初めから間違っていたんだ。」
私は返辞に困った。
そして、母親が結婚を承知した由を知ると、彼の喜びは更に大きかった。
「そうれみ給え、僕が云った通りだ。天は助くる者を助くるんだ。」
そんな出たらめなことを云って威張っていたが、それでも母親の前に出ると、彼は子供のように顔を真赤にして、眼に一杯涙ぐんでいた。
「お母さん、僕達は二人心を合して孝行します。ほんとに孝行しますよ。安心して下さい。」
その言葉を、母親は自ら涙ぐみながら、中一日おいて私が行くと、くり返しくり返し聞かしてくれた。
彼は縁側に寝そべって、変に憂欝な微笑を頬に浮べていた。
「どうしたんだい。」
「うむ……。」
意味のない返辞をしたきりで、彼はまた地面に眼を落した。赤蟻がそこらを這い廻っていた。然し彼はもう餌をやりもしないで、じっと傍観してるきりだった。それから不意に私の方へ向き直った。
「君、結婚って、嬉しいものだろうかね。」
私は驚いて彼の顔を見つめた。前々日の彼の喜びが大きかっただけに、私は呆気に取られた。
「僕はどうも、変に不安なんだが……。」
そして彼は私の眼をなおじっと見入ってきた。私は眼を外らして答えた。
「だって君は、あんなに自分
前へ
次へ
全13ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング