ういうことが三月のはじめにも一度あった。
私はそれを兄さんに隠した。なぜだか分らないが、どうしても云えなかったのである。そして遂に最後の日がやって来た。
三月の十二日、その日は朝からどんより曇って、そよとの風もない、妙に頼り無い気のする日であった。朝は廻り途をして学校へ行った。帰りに廻り途をしようと思ったが、兄さんが少し風邪の心地で家にぼんやりしていられるのを思い出して、早く家に帰りたくなり、何の気もなく真直に戻って来た。
お寺の門の柱によりかかって彼が立っていた。私は平気を装いながら通り過ぎようとした。その時彼は何と思ったか、私に一寸お辞儀をした。私もそれに引きこまれてお辞儀をしてしまった。それから、私は俄にぞっと全身に慄えを覚えた。今迄と違って、妙に真剣なものが感じられたのである。駆け出そうとしたが出来なかった。自分の足が非常に重く思われた。私は歯を喰いしばって歩き続けた。彼が私の後から常に七八歩の間隔を保ってついてきた。漸く家の前まで来て、私が門の中へはいると、彼も中へはいって来た。私が玄関に立った時、此度は不思議にも――否この方が不思議ではないのだけれど――、玄関の方へや
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