でいるので、故郷の家には両親と弟とがいるきりで、わりに淋しかったけれど、一年ぶりに父母の膝下に身を置くことは、私にとってどんなに嬉しいことだったろう。けれども今は、そういうことを書いてるのではない。私は物語りの筆を進めよう。
故郷に帰ってるうち、彼の姿は私の頭から自然に遠のいていた。所が夏休みの終る頃、もう四五日でまた東京の兄の家へ戻るという時になって、不思議なことが私に起った。
私の家は殆んど郊外と云ってもいい位の、町外れの野の中に在った。お父さんが主に所有地の監督をやるようになってから、その町外れの閑静な家へ引越したのであった。
月のいい或る晩、私は一人で田舎道を散歩した。東京に住むようになってから、故郷の田舎の月夜に対して、私は一層深い愛着を覚えてきた。それには、幼い頃の思い出と月夜の平原に対する憧れとが、入り交っているのであった。その晩は殊に月が綺麗であった。銀色の光りが、遠くまで野の上に煙っていた。真白い道が稲田の間に浮き出して、稲の葉に置いてる露の香りが空気に籠り、蛙の声が淋しく響いていた。私は暫く田園の中を歩いた後、口の中で唱歌を歌いながら、家の方へ帰りかけた。する
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