何かが恐ろしくなった。胸が高く動悸していた。
その日私は、そのまま家に帰って、気分が悪いと義姉さんに云って、学校を休んでしまった。終日、悪夢の後のようにぼんやりしていた。
それから私は出来るだけ、お寺の前を通らないことにした。通るのが少くなっただけに、彼の姿を見ることも少くなった。そしてるうちに忙しい試験期日となった。試験がすみ、夏休みになって、播磨の故郷へ帰る前、私は或る日の朝、お寺の前へ行ってみた。何のために行ったのか、私は覚えていない。恐らくその時でさえ、何故かというはっきりした理由は持っていなかったのであろう。
お寺の中はひっそりとしていた。まだ露に濡れてるかと思える苔生した地面に、植込の木立をもれる日の光りが美しい色を点々と落していた。爽かな空気が一面に罩めていた。誰の姿も見えなかった。私は淡い哀愁に似た気持ちを懐いて、家に帰ってきた。彼に脅かされ続けていた私は、彼の姿を取り去ったお寺の庭に対して、何となき懐しみと物足りなさとを覚えたのである。
それきり私は彼に逢わずに、故郷の家へ帰った。一番上の兄さんは東京に住んでおり、二番目の兄さんは幼くて死に、姉さんは大阪へ嫁いでいるので、故郷の家には両親と弟とがいるきりで、わりに淋しかったけれど、一年ぶりに父母の膝下に身を置くことは、私にとってどんなに嬉しいことだったろう。けれども今は、そういうことを書いてるのではない。私は物語りの筆を進めよう。
故郷に帰ってるうち、彼の姿は私の頭から自然に遠のいていた。所が夏休みの終る頃、もう四五日でまた東京の兄の家へ戻るという時になって、不思議なことが私に起った。
私の家は殆んど郊外と云ってもいい位の、町外れの野の中に在った。お父さんが主に所有地の監督をやるようになってから、その町外れの閑静な家へ引越したのであった。
月のいい或る晩、私は一人で田舎道を散歩した。東京に住むようになってから、故郷の田舎の月夜に対して、私は一層深い愛着を覚えてきた。それには、幼い頃の思い出と月夜の平原に対する憧れとが、入り交っているのであった。その晩は殊に月が綺麗であった。銀色の光りが、遠くまで野の上に煙っていた。真白い道が稲田の間に浮き出して、稲の葉に置いてる露の香りが空気に籠り、蛙の声が淋しく響いていた。私は暫く田園の中を歩いた後、口の中で唱歌を歌いながら、家の方へ帰りかけた。すると突然に、全く突然に、私はぞっと水を浴びたような戦慄を感じた。私の後ろに、あの白い着物のお坊さんの姿が立ってるのである。私が一足歩くと彼も一足ついてくる、私が立ち止ると、彼も立ち止る。私はそれを眼に見たのではないが、はっきり心に感じたのだった。恐しさに縮み震えながら、そっと気を配ると、あたりは皎々たる月明の夜で、蛙の声が猶更野の寂寞さを深めていた。私はふり返ることも、立ち止ることも、また歩くことも出来なかった。彼の姿は私の数歩後ろに、じっと佇んでいた。私は息をつめて眼を閉じて、運命を天に任せるより外に仕方がなかった。……長い時間がたったような気がした。気が遠くなるような心地がした。そしてふと眼を開くと同時に、私は我に返った。もう彼の姿は感じられなかった。ふり返ると、誰の姿もない野の上に、一面に月の光りが落ちていた。
幻だったのだ! けれども、ああそれがいつまでも単なる幻であってくれたなら!
私は八月の末に、また東京の兄の家に身を置いて、学校に通うこととなった。そして、幻は単なる幻のままでなくなってきたのである。
九月の新学期に初めて学校へ通った日、私は往きも帰りもお寺の前を通ったが、彼の姿は何処にも見えなかった。けれども二三日目から、殆んど毎朝のように、御門の中に立っている彼を見出すようになった。ただ私がいくらか束の間の安堵をしたことには、彼の白い着物が新らしく綺麗になっていたし、顔色なんかも休暇前よりはずっとよく、髪も短く刈り込まれているし、髯はいつもちゃんと剃られていた。頬はやはりこけていたが、すべすべとした艶が見えていた。箒をいつも手にしながら、私の姿を見ると、楓の幹に軽く身を寄せたりして、わざとらしい嬌態をすることがあった。顔では笑わなかったが、眼付で微笑んでいた。時とすると、楓の幹に投げかけた片手に、新らしいハンケチを持ってることなんかもあった。私はその無骨なお坊さんの様子が、かく俄に変ってきたのを見て、軽い笑いを唆られることさえあった。それからまた彼は、私の学校の帰りには少しも姿を見せなかった。彼が門内に佇んでいるのは、爽かな日の朝に限っていた。青々とした楓の葉の下に、まだ朝露を含んでいそうに思われる清らかな空気に包まれて、箒を片手に苔生した地面の上に佇んでいる彼の顔を、私は初めて美しいと思ったことさえある。
かくて彼に対する私の警戒は次第にゆる
前へ
次へ
全10ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング