それを彼女の手に握らした。
「少いけれど、取っといてくれ。……おい、もう帰るよ。夜が明けたんだ。」
 彼女は涙にぬれた顔を上げて、私の方を見た。私が立上ると、彼女も自動人形のように立上った。そして、踏段の軋る急な階段を、私の後について下りてきて、下駄を出してくれ、表の戸を開いてくれた。その無言の彼女の方へ、私はもう振向きもしないで、さよなら、と云い捨てたまま外へ飛び出した。
 曇り空の下のどんよりした薄明りに、漸くそれと知られる、まるで夕暮のような夜明けだった。私は力無い危っかしい足取りで、曲りくねった小路をつきぬけ、近くの公園へ辿りついて、池の近くのベンチに坐った。昨日から曇ったままの暗い陰鬱な空、ぼーっと盲《めし》いた薄ら明り、濁ったままどんよりと湛えてる池の水、黙りこくった剥げちょろの建物、凡てが重々しく私の心にのしかかってきた。
 私は長い間身動きもしなかった。汚い忌わしい臭気に染みながら、身体の内部のものがすっかり吐き出されてしまったような、変に頼りない空しさを覚えた。その空しさに眼をつぶっていると、何処からか冷々とした風が流れてきた。私は夢からさめたように顔を上げた。何とも
前へ 次へ
全34ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング