杯にぶつかってゆきたくなる。四股《しこ》を踏みしめて、街路樹と押しっくらがしてみたい。眼の前につっ立ってる、板塀や石壁や屋根などに、躍り上り攀じ登ってみたい。喉が張り裂けるまで、声の限りに叫んでみたい。自分の前を通る人の頭に、握りしめた拳固を一つ、ぽかりと喰わしてみたい。動物園で、狭苦しい鉄の檻の中を、おとなしく歩き廻ってる猛獣を見ると、自分の方で堪らなく苛立ってくる。
 丁度そういう気持へ、じりじりと落ちてゆきそうな気がしてる時のことだった。それは月初めの第一の日曜日で、下宿料や其他の払いを済した後に、十六円余り残っていて、そのうちから月の小遣を差引いて、余分の金で、何をしようかと――着物も買いたかったし、芝居も見たかったし、酒も飲みたかったし、買いたい書物もあったし、其他いろんな欲望があったが、そのうちのどれを満してやろうかと――さすがに楽しい心地で考え初めた所が、その楽しい心地が一寸向を変えて、自分の心にはっきり映ってきて、自分で自分が惨めになさけなくなり、これだけが一ヶ月の労苦の報酬かと考え、その報酬にうわずった喜びをしてる自分かと考えて、それから自分の日々を眼の前に思い浮べて
前へ 次へ
全34ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング