あったら……。然しこの都会の真中では、人の体力を要求するようなものは、何一つとしてない。鍬を取って掘り返すべき、一隅の地面もない。鋸や斧を振うべき、一片の木株もない。息の限り走り廻られる、広々とした草原の面影もない。そして生活は、大地を離れた繁忙な事務の中に閉じ籠められ、一つ所に動きがとれぬほど固定され、毎日同じことを繰返す機械のようになされて、額ににじみ出る汗は、筋肉を働かせることから来る力強い爽快な汗ではなくて、日光と空気とが不足して窒息してゆく、じりじりとした生汗《なまあせ》である。それも私ばかりではない。誰も彼もみな、干乾びて痩せ細るか、脂肪がたまってぶよぶよと肥るかして、溌溂とした体力を持ってる者は一人もいない。激しい残忍さと温良さとを持ってる農夫、強い抱擁力を持ってる田舎娘、それらを思い出させるような顔付は、一つとして見当らない。精神は亡びるなら亡びるがいい、熱い血の流れてるこの肉体だけは、どんなことがあっても亡ぼしたくない! そう私は叫びたくなってくる。
 そして私の胸の底から、何だか形態《えたい》の知れない強暴なものが、むらむらと湧き上ってくる。何物へでもよいから、力一杯にぶつかってゆきたくなる。四股《しこ》を踏みしめて、街路樹と押しっくらがしてみたい。眼の前につっ立ってる、板塀や石壁や屋根などに、躍り上り攀じ登ってみたい。喉が張り裂けるまで、声の限りに叫んでみたい。自分の前を通る人の頭に、握りしめた拳固を一つ、ぽかりと喰わしてみたい。動物園で、狭苦しい鉄の檻の中を、おとなしく歩き廻ってる猛獣を見ると、自分の方で堪らなく苛立ってくる。
 丁度そういう気持へ、じりじりと落ちてゆきそうな気がしてる時のことだった。それは月初めの第一の日曜日で、下宿料や其他の払いを済した後に、十六円余り残っていて、そのうちから月の小遣を差引いて、余分の金で、何をしようかと――着物も買いたかったし、芝居も見たかったし、酒も飲みたかったし、買いたい書物もあったし、其他いろんな欲望があったが、そのうちのどれを満してやろうかと――さすがに楽しい心地で考え初めた所が、その楽しい心地が一寸向を変えて、自分の心にはっきり映ってきて、自分で自分が惨めになさけなくなり、これだけが一ヶ月の労苦の報酬かと考え、その報酬にうわずった喜びをしてる自分かと考えて、それから自分の日々を眼の前に思い浮べて
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