、それを買い取った人は、それだけの金を、云いかえれば、それだけの労力を、支払ってるじゃないですか。器物は何処へいっても、その所有者の労力を具体的に示しているものです。」
「そういうことになりますと、世の中のものは何一つ、どんな不用なものでも、少しも毀してはいけないことになりますね。」
「まあそうです。自然と毀れるものは仕方ないが、進んで毀すということは、何についても罪悪です。毀すよりは打捨ててしまう方が本当です。極端に云えば、髯を剃ることだって一の罪悪になるかも知れません。」
「それでもあなたは、二三日おきには髯を剃っていられるじゃありませんか。なぜ長くお伸《のば》しなさらないのですか。」
「まだなかなかそこまでの修養は出来ませんね。その代り、僕はこの通り髪を長くもじゃもじゃに伸して、なるべく刈らないようにしています。それに、或る程度までの罪悪は生きる上に仕方ありません。第一物を食うということが罪悪ですからね。まあ、自分のものは自分の勝手に処置して、その代り他人のものには指一本触れない、というくらいの所で妥協するより外はないでしょう。」
「それなら、他人のものに指を触れることが、生きる上に必要だったら、どうでしょう。」
「そんな必要があるものですか。」
「いえ時によるとあるかも知れません。そうしなければどうしても生きてゆけない、といったような気持も……。」
「それは必要な気持ではなくて、贅沢な気持です。贅沢から世の中は面倒くさくなるんです。贅沢心さえなければ、人間は安んじて生きてゆけるものです。」
「そうでしょうかしら?」
「そうですとも!」
 そこで私達の話は、その問題から離れてしまったが、私の心はいつまでもその問題に絡みついていた。この大学生はいやに理屈だけは達者だが、実際のことは何にも分らないのだと、私は強いて考えようとしたし、また確かにそうだと感じもしたが、それでも彼の言葉のうちで、私の心を打つものが残っていた。私は贅沢な苦しみをしてるのではあるまいか、贅沢な興味から硝子店へ石を投ったのではあるまいか、そんなことが疑われだしてきた。否そうではない、と心でも感じ頭でも肯定してみたが、何だかじっと落付いていられなかった。その上、自分は警察の手で追跡されてはしないかしらという、馬鹿げたぼんやりした不安が残っていた。そして凡てのことがごったになって、私をまたある硝子
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