旅程では、どうしても、その晩の汽車で立たなければならない。スーツケースも駅に一時預けしてきたほどだ。だから二人は、急いで飲み、急いで食い、急いでいろいろなことを話した。その話に、久子さんは殆んど加わらなかった。別な存在のようで、或は人形のようで、ただ席に侍ってるだけだ。料理などもたいてい、彼女がおばさんと呼んでるひと、あちらに住んでる親戚のひとであろうが、そのひとがしてくれてるようだ。
「このひとは、まったくお姫さまだよ。」と岩木は言った。
 だがそんな話は、つまり家庭的な個別的な話題は、すぐに飛び越えて、他の重大な話に、つまり一般的な話題に、移っていった。
 そして、眼には見えないが仄かに暮れかけてきた頃のこと、玄関のベルが鳴った。久子さんが出て行った。しばらくして彼女は戻って来た。
「清水さんに、お客さまですよ。」
 俺は合点がゆかないのだ。
「間違いでしょう。僕はここではほかに知人はないし、昨晩、それも夜明け前に……。」
 言いかけて、ふと思い当った。
「どんな人ですか。」
「若い女のひとです。」
 俺は息を呑んだ。自分でふしぎなほど狼狽し、それから腹が立った。
「追い返して下さい。図々しいにも程がある。呆れた奴だ。」
「どうしたんだい。」と岩木が尋ねた。
 そこで俺は、話し忘れていたこと、あのヤミ宿での一件を、あらまし打ち明けた。
「なあんだ、それだけか。いたずらでもしたんじゃないのかい。」
「なんぼ俺が物好きでもね。ただちょっと、感傷的に同情したものだから、名刺の裏に君の名前を書いて渡した、それがしくじりの元だ。」
 俺は眉をひそめたが、岩木は仔細げに小首を傾げた。
「まあ待て、僕にも関係がある。話を聞いてみようじゃないか。」
 彼は自分で立って行った。そしてあの娘を連れて来た。娘は室の隅っこにぴたりと坐って、慴えたように身を固くしている。
「話は清水君から聞きましたが、伯母さんのこと、どうでした。」
「はい。」
 一言答えたきり、言葉を切った。その顔を見て、俺はちと戸惑いした。あの時、娘は夢でも見てるかのように、ただぼーっとして、殆んど表情がなかった。ところが今、その同じ丸っこい顔に、うち沈んだ影がさし、少し落ち窪んだ眼に、涙さえ浮べてるらしい。
「はい。」と娘はまた言った。「市役所で調べて貰いました。伯母さんは、やっぱり亡くなっておりました。お墓は分り
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